月別アーカイブ: 2014年3月

3月20日

雨である。

ニレを幼稚園に送る。今日が修了式で、年中組最後の日となった。担任のいのうえ先生が退職されるので、今日でお別れである。昨年の4月から1年間、本当にお世話になった。さらなるご活躍を祈念いたします。

3月いっぱいで幼稚園が変わることになったHちゃんとも今日でお別れ。「卒園」に際して、白いブラウスと紺色のジャンパースカートというきちんとした格好で来ていた。普段着の子供達に囲まれてイノセントに遊んでいるHちゃんの姿をみて、涙が出そうになる。

山上の大学へ行き、こちらは卒業式。
事務仕事に追われてしまい、開式間際に慌てて着替えていると、担任している卒業生達が記念撮影のために研究室に来てくれた。

皆さん、ご卒業おめでとうございます。元気に頑張ってください。いつでも遊びに来てね。

終了後は、専攻の会議と新年度の打ち合わせ。

ニレを迎えに行ってから、砂田くんのお家へ行き、さきちゃんとあーちゃんに、パソコンをお渡しする。

一日中動き回っていて、今日も昼ご飯が食べられなかった。

帰宅すると、謝恩会が終わったイーダがすでに朝日ヶ丘ホテルに戻っていた。
3人で夕食。ソーセージ、ニシンのスモーク(イワモト君がくださった)、アスパラガス(好きなのだが、高いので普段はあまり買わない)、ブロッコリー、ごはん、焼き海苔など。

 

 

 

 

3月19日

ニレを幼稚園へ送りに行く。本日は卒園式。

神戸から大阪へ移動して産業医。

面談をいくつか行った。あとは、来週の新入社員への健康についての講話の準備など。

終了後は日本橋の国立文楽劇場へ行き、予約していた文楽のチケットを購入。文楽をみるのは初めてである。一人で行くことにした。

帰宅して、松美屋さんに誂えをお願いしていた着物を受け取る。その後、夕方5時近くなってようやく昼食(カレーライス)。

外付けHDDのフォーマットをしている途中で、どういうわけかMacに入っているiTunesのデータ(ムービー含めて100G以上あった)を消去してしまった。

泣きそうになりながら、砂田君にメールをさせていただく。

夜は、凱風館で合気道の稽古。

 

 

「M君へ語る私的身体論」⑧ あの時、ごく短い時間で考えたこと(フロー体験1)

相愛大学の授業は「身体をうまく使えている状態」について考えることから始めました。それが学生諸君の希望だったので、内容的にも期待に沿うもの、初回から興味を持ちやすいものにしようと思い、「フロー体験」を取り上げることにしました。

フロー体験とは、日本語で最適経験と呼ばれたりもしています。「一つの活動に深く没入しているので、他の何ものも問題とならなくなる状態」のことを指します。*1

私がフロー体験について考えるようになったのには一つのきっかけがありました。2012年の7月に神戸女学院大学で集中講義「対人コミュニケーション」の一部を担当することになり、私はそのお話をいただいた2011年の秋に少しずつ授業の準備をすることにしました。

実際の授業を行うまではまだ時間がありましたが、当時の本業の医学研究の方はいつ何時忙しくなるのか予想がつきませんでしたので、神戸女学院での授業については、できるときにできるだけの準備を進めておく必要がありました。

その授業は、「キャリアデザインプログラム」という副専攻の枠に入っていて、将来ホテルや、エアライン、銀行などで働くことを目指している学生が、仕事で必要になるコミュニケーションについて考えることを目的としたものです。

ホテル業界の方、インターナショナルスクールの元校長先生などが授業を担当されていて、その中で私は、「医療上のコミュニケーション」についての講義を行うことになりました。

病院におけるコミュニケーションの特徴や、起こりやすい問題、エピソードなどはいくらでも話すことはできますが、ある程度学術的な裏付けの基に授業を進めたいという気持ちがありました。

医療コミュニケーションについて土曜日一日で90分×4コマの授業をするので、多面的な切り口(はっきり言うと、学生のみなさんが飽きない工夫)を考える必要がありました。

いくつか「コミュニケーション学」についての本を読んだのですが、残念ながら私が持っている医師としての経験とうまく融合させられそうな学問体系に出会うことはできませんでした。

そこで、当時私はまだ阪大にいたので、キャンパス内で、コミュニケーション学の専門家を探すことにしました。

コミュニケーション研究は、心理学の領域で主に行われているようでした。

阪大で心理学者が多く在籍しているのは人間科学部です。阪大吹田キャンパスにある人間科学部の研究棟は医学部の隣なので、非常に好都合でした。調べてみると、阪大には、コミュニケーション学について研究されている社会心理学研究室のD教授がおられました。D先生は、「対人コミュニケーションのプロセス解析」や「顔コミュニケーション」を専門にされている心理学者でした。

今思うと大変不躾なことでしたが、私は、「医療におけるコミュニケーションの授業を行うことになったので、コミュニケーション学についての基本的なことを教えてください」というメールをD先生に送りました。

数日後、D先生は丁寧なご返事をくださり、お会いいただけることになりました。

メールの記録を調べてみると、私は2011年の11月28日に研究室に伺っています。一つだけ計算違いだったのは、当時の人間科学部は改装工事中で、D先生の研究室は、一時的に阪大箕面キャンパス(旧大阪外語大)に移っていたことでした。

11月の箕面キャンパスはどういうわけか分かりませんが、ほとんど人がいなくて、とても静かでした。守衛さんに会った後はキャンパス内で誰にも合わなかったので、「本当にこの場所にD先生の研究室があるのか?」と不安になりましたが、守衛さんに教えてもらった通りの道を、菓子折りの袋を下げながら歩いて行きました。

箕面キャンパスは道路が広く、大きなグランドとテニスコートがありました。結局、守衛さんに会った後、D先生にお会いするまでは誰とも会いませんでした。医局や大学病院では、いつも人に囲まれて仕事をしていたので、このような静かなところで働ける大学教員という職種を、少し羨ましく思いました。

D先生の研究室は、建物の2階にありました。ノックしてドアを開けると、そこは驚くほど広い部屋でした。20人位だったら十分に授業ができそうな広さでした。赤茶色のリノリウムの床で、部屋の中央に一段段差があったので、そこは本当に教室だったのかもしれません。

D先生はその部屋の窓際にご自分の仕事机を置き、部屋の真ん中にミーティング用のテーブルを置いていました。

予想外の部屋の大きさに戸惑っている私を見てD先生は、

「間借り中で、こんなところに居るんです」

とおっしゃり、私を室内へ招き入れてくださいました。

D先生は、優しく丁寧な口調でお話をされる、大変紳士的な方でした。髪が黒々とされていて、エネルギッシュな印象を受けました。

早速本題に入りました。

 

・「コミュニケーション学」の学問体系というものが、どのように構築されているのかよく分からない。

・正直なところ、私には「コミュニケーション」というものを学問あるいは科学として考えるというのはどういうことなのか、分からない。

 

ということを率直に伝えました。

簡単に言うと、特定の学術領域としての主立った「知見」とか「軸」というものが私はコミュニケーション学の中に見いだすことができませんでしたし、「コミュニケーションを科学する」ということの方法(分析法、検証法)の精度をどのように担保するのかが分かりませんでした。

すると、D先生は、私の話が終わるか終わらないかというタイミングで、「コミュニケーションというのは空気みたいなものですので、それを考えるアプローチは無数にあるんです」

とおっしゃいました。

失礼な言い方になってしまいますが、私はそのD先生の反応スピードから、この先生のことが理屈を超えて好きになってしまいました。しかし、それと同時に大きな溝をはっきりと感じました。

コミュニケーション学については学会も存在しますが、そこはコミュニケーションを専門的に研究している研究者の「主戦場」というよりも、多様な専門分野を持っている研究者が、「コミュニケーション」という切り口の上で寄り集まってくる、学際的な場所の様でした。

私が神戸女学院大学に求められているのは、将来の仕事に活かすことのできるコミュニケーション関連の話であり、「コミュニケーション学」に何らかの学術的な背景を求めて余計な話をするよりも、現場の話に特化して、学生の役に立つ話を進めるべきだということが、その瞬間にわかりました。

それまでにコミュニケーション学に関するいくつかの本を読んでいたという前提があってのことなのですけれど、D先生とお話することで、「心理学的アプローチ」というものは医学・バイオ研究を含めた自然科学研究とも、人文科学とも異なっていて、どうも私にはなじめそうもない(=主戦場とすることはできない)ということがはっきりしました。

「神戸女学院の授業では、心理学とは別のアプローチを取り入れなくてはならない」ということが分かりましたので、D先生にお会いした私の目的は、面会後1分で果たされてしまいました(それはとても貴重な1分だったのですが)。

しかし、面会後1分で帰る訳にもいかず、私は困惑してしまいました。

非常に短い時間に、もやもやと多くのことを考えました。

 

私は、心理学における研究では、研究の出発点(あるいは動機づけ)と、到達点の設定の仕方が自分が考えている「科学研究」とは完全に異なっているので、その違いを前提として謙虚に教えを請わなければならないと思いました。

自分が非常に幸運な出会いの只中にあり、この貴重な機会を生かさなければならないという気持ちはありましたが、どのように言葉をつなげれば良いか分かりませんでした。そこで、苦し紛れではありましたが、

「私は、医学研究者としてバイオ研究を行っているのですけれど、同時に合気道の稽古をしています。合気道は「現代に生きる武道」と言われており、将来、医学と武道を横断的に結ぶ研究をしてみたいと思っているんです」

と言いました。

D先生にはこのようにお話しましたが、私にとっては、この「横断的研究」のアプローチ、あるいは方法自体が大問題でした。このような研究を行いたいという気持ちはありましたが、実際にはどのように進めたらよいのか分からなかったのです。

そしてこの日私は、D先生とお会いすることで、「心理学的アプローチ」が自分には馴染まないということだけがわかりました。

それまでの私は、心理学という未知の分野にある種の希望を抱いており、その学問的体系が、自分が行いたいと思っている研究を助けてくれるのではないかという浅はかな気持ちを持っていました。

それは先ほど述べた「横断的研究」のことに限らず、神戸女学院でのコミュニケーションの授業においても同じことでした。しかし、そのような私の考えは「甘え」であるということが、D先生とお話して分かったわけです。

 

社会心理学というのは、社会における人間の行動(たとえば「意思疎通」とか、拒絶を含めた「自己表現」など)を心理学的に分析し、説明する学問のようでした。正直言って、わたしにはそのやり方が、「形の無いものに対して、既存の枠組みを当てはめていく振る舞い」に思えてしまいました。失礼を顧みずにわかりやすい例えを用いるなら、それは「過剰な単純化」であると感じたわけです。

そして、その「単純化」「枠組みの当てはめ」を繰り返しているうちに、複数の枠組みに収まらない暗闇の数が、どんどん増えているような気がしました。

 

「研究を進めていくうちに新しい疑問が生まれる」というのは様々な研究において認められる、ごく普通のことです。ある意味これは、研究が着実に進んでいる証ということができるかもしれません。しかし、私にとってこのタイプの疑問(暗闇)は、「生まれるもの」というよりも、説明や解釈の脇から「こぼれ落ちていくもの」のように思えました。

私は、医療コミュニケーションの特徴や難しさを神戸女学院大学の学生に対して語りたいと思っていましたし、「医学と武道を結ぶものが何か」という研究をしたいと思っていました。しかしそれは、ある種の枠組みにそれを落とし込みたいということではなくて、もっと、生成的な言葉、あるいは、語られることでメッセージがさらに進化していくようなものを作っていきたいと思っていました。

私はそのような「無理難題」の答えを、私がまだ知らない心理学というものに、勝手に求めてしまっていました。

 

非常に短い時間でしたが、私はそのような自分の甘えた気持ちに対して強い自責の念を持ちました(少ない言葉を交わしただけで、私が「いやー、そうですか。うーん」などと言いながら、天井を見つめたり、急に床をじっと見たりしていたので、D先生は、私のことを変な男だと思われたと思います)。

私が心理学との間に感じてしまった「溝」は、私自身の思考のゆがみと勉強不足に一部由来するものであるということもまた分かっていました。

ですので、あらためてまっさらな、開き直るような気持ちで、「別世界」の研究の大家であるD先生から、吸収させてもらえるものは何でも吸収させてもらおう、と思いました。

わたしは、そのような気持ちで、D先生に

「将来、医学と武道を横断的に結ぶ研究をしてみたいと思っているんです」

と言いました。

私が話すとD先生は、「私の現在の研究のメインテーマは”Well-being”(心身ともに健康であること)の分析なんです」

というお話をされました。
D先生は多彩なテーマで社会心理学の研究を進めてこられたので、それを社会に役立つ形にまとめたいというお気持ちを持たれているようでした。遠い射程を持って長年研究を続けてこられたのだということが、分かったような気がしました。

「歳を取ってくると、自分がこれまでしてきたことを肯定的な方向にまとめていきたいと思うものなのでしょうかね」

とおっしゃっていました。

その後、いくつかの話をお聞きするなかで、D先生は「ポジティブ心理学」(ナカニシヤ出版)という本をくださいました。

私は後に、この本の第4章「フロー経験の諸側面」を読むことで、「フロー体験」について考えるきっかけを与えられました。
(続く)

 

*1「フロー体験 喜びの現象学」(世界思想社)M.チクセントミハイ p5

 

 

 

 

 

 

3月18日 あんゆりすお店 繁盛記(夜明け前)

幼稚園にニレを送ってから大学へ。

春休みなのだが、珍しく予定がない日だった。管理栄養士国家試験を直前に控えた4年生のために、午前中は質問受付の時間にする。

大学の研究室で待っていたが、訪ねてきたのは別件の相談できた専攻長のM先生だけだった。

ちょっと心配になるが、ここまで来たら、体調管理に気をつけて普段通りの力を発揮してもらいたい。今年の4年生は、全体としてかなりよい仕上がりを見せているので、期待している。

 

普段は幼稚園で延長保育を頼んでいるのだが、本日はあるプロジェクトの準備をするため、正午に幼稚園へニレを迎えにいく。

今年の夏、朝日ヶ丘ホテルでは期間限定のアイスクリーム屋を開くことになっている。昨年末の時点で店名もすでに決まっている。「あんゆりすおみせ」である。

「あんゆりす」とは青い羽根の鳥で、インカ帝国の王子の紋章である(嘘)。

正月に、イーダと私が、それぞれ30品目ずつのメニュー案を提示し、最終的にスタート時のアイスは「バニラ」「チョコ」「ストロベリー」の3点になった(30品目も考える必要があったのか?という質問に対しては、「あった」としか答えようがない)。

屋台形式の店を考えており、出店場所としては、芦屋いかりスーパーの隣でゲリラ的に店を開くとか、近所の小児科の前で泣きながら出てくる子供を狙い撃ちするなどのプランがあったが、最終的には自宅前で行うことにした。

この場所は、朝日ヶ丘プールから家に帰る子供たちが通る道になっており、マンションに居住する小学生たちを一網打尽にできる可能性がある。

「イチオシメニューは何にするのか?」

という私に対して店長(娘)は、

「トッピングアイス」

という意味不明の返答を繰り返している。

このままではラチがあかないので、3月18日に、第一回のアイス試作を行うことにした。

牛乳、生クリーム、卵黄、グラニュー糖、バニラビーンズをそろえ、300mlというミニスケールで試食品を作成。

ホイップが足りず、舌触りが今ひとつだったが(シャリシャリ感が残った)、味自体はまずまずだった。

プール帰りの子供たちが「うっとり」できるようなアイスをつくるため、さらに改良を進めなければならない。

絶品アイス作成のため、よろしければお知恵をお貸しください。トッピングのアイディアも嬉しいです。
採用させていただいた方には、「あんゆりすおみせ」のギフト券を進呈いたします。

st[atmark]hotel-asahigaoka.com

atmarkは@です。

 

3月17日

幼稚園送りのあと、能の稽古。

ウエハラさんの「吉野天人」の装束付けのお手伝いをする。

その後、産業医。空いている時間で、「大川君」の続きを書く。

幼稚園へ迎えに行き、スーパーで買い物。

プレッツェル(←ローマ字入力では入れることができなかった。ATOKに助けられた。)を売っていた。

2011年まで毎年参加していたアメリカ血液学会では、ポスターセッションの会場で、ビールやプレッツェル、簡単なオードブルなどが並んでいた。粗目の塩がトッピングしてあるプレッツェルに大量のマスタードを塗って食べるのを、私は楽しみにしていた。

特別うまいと言うわけでは無いのだけれど、何となくそれが毎年の習慣だったのである。

芦屋の軟弱系スーパーで、子供の顔くらいの大きさがあるハート型のプレッツェルが1個267円。迷ったが、一個だけ購入。なぜか肉売り場で、こちらに合わせるのに丁度良いマスタードの瓶詰めを安売りしていたので(298円)、これも購入。

スモークサーモン、豚肉の味噌漬け、空豆、ご飯、おまけにプレッツェルという夕食。

風呂に入るところで、ゼミ旅行からイイダが帰宅。

酒は、夕食時にビールと日本酒を少し。

今度の日曜日に行われる管理栄養士国家試験について、ある業者から解答速報作成の依頼を受けた。合気道の行事と重なるが、対応しなければならないだろう。

3月16日

残務整理と、調べ物の一日。

天気が良かったので、外出から戻ったイーダとニレと、庭で遅めの昼食をとる。外で少しだけ本も読んだ。

酒は飲まなかった。

3月15日 イワモトウエディングに出席する。

イワモト君の結婚式と披露宴に出席。

我が家は3人でお招きいただいた。

合気道の仲間であり、また、医師の同業者であることから祝辞を述べさせていただいた。

人の手助けをする場所を与えられるというのは、その場所を与えられた人間の方が、実は助けられている。育てられている。

人を育てるのは時間がかかる。そして、身体を使う必要がある。

自分の身体を差し出して手助けをしてもらうということは、人を育てることにつながっている。

イワモト君は、そのような形で育まれ、現在のようなたくましい男性になる道筋をつけてもらった。

もともと人をサポートする卓越した能力を持ったイワモト君は、医師として非常に高い資質を持っている。

これからは、その能力を生かすことに加えて、結婚生活や仕事において、「頼る」ということを通じて、人との関係を深めたり、人を育んだりしていっていただきたい。

僭越ながら、そのような話をした。

もちろんイワモト君を祝福する言葉だったのだけれど、彼と一緒に感謝を言葉にしたような気持ちであった。

乾杯は、新城先生。

タカオさん、ツネタさん、イシダさんが、新郎新婦のために合気道の演武をしてくださった。

祝宴のクライマックスは、イワモトファーザーのギター弾き語り。
斉藤和義という選曲で意表を突くのと同時に、ささやくような歌声で聴衆の心を鷲掴みにしていた。

帰りの車中、ラテンバンドでボーカルを担当しているイイダは、「イワモト君のお父さんに歌心を教えてもらった」と言っていた。

イワモト君が何かと大変だった時代を、「道場における兄、姉」としてサポートしてきたタニグチさんとタニオさん、そして誰よりも、内田師範に彼の立派な姿をお見せしたかった。

ご多幸をお祈りします。

 

 

3月14日 いつも謝ってばかり。

午前中は大阪で産業医。

机に座って、おもむろに仕事を始めようとすると後ろからため息が聞こえてきた。

くるっと椅子を180度回転させて、看護師さんに「どうしたんですか?」と尋ねる。

普段の考えを聞いて、意見を共有する。

同じ職位、ほぼ同じような経験を重ねて来た人が複数いるときに、特定の人に仕事や責任が集まってしまうということがある。

頼りにしているとうことを伝えつつ、「適切な範囲で仕事と責任を分散させていきましょう」という話をする。

「ちょっとすっきりしました」

と言われて安堵する。

その後仕事に戻ると、「先生これ、少し手伝ってもらえませんか」

と、話しかけられた。

前段の話の流れから当然断ることは出来ず、看護師さんに持ちかけられた仕事の渦に巻き込まれて行く。

なかなかのやり手である。

 

産業医の後は、神戸へ。途中で讃岐うどんをF1レースの給油並みのスピードでかきこむ。

大学で入試関連の業務、学生面談(1年生と4年生)など。合間に図書館へ行き、調べ物もすませた。

夕方ニレを迎えに行ってから、夕食の買い物。

本日は、かにあんかけ卵豆腐(私の得意料理になりつつある)、新子ポン酢あえ、トマト、ポテトサラダなど。

お願いしていた海苔が、家島の中村さんから届いた。購入した海苔以外の心遣いが嬉しい。

さっそくイカナゴの釘煮をいただく。

ビールと日本酒を飲む。

風呂に入っているうちに、「送別会祭りザ・ファイナル」のイイダが帰ってきた。

着替えている途中で、退職金関係の書類を見せられる。

お金のことは考えるのがとても苦手なので、勘弁してもらう。

「がんばったんだね」とか「お疲れ様」とか、言ってあげられたらよかったのかもしれない。

すまない。

健闘と健康を祈っている(直接言えよ)。

3月13日 四十男の負け戦について

幼稚園にニレを送ってから大学。

新年度に向けて、学生面談を数名。

その後、人間科学部の若手懇談会に出席する。人間学部長の呼びかけにより、着任して数年の教員が月に一度程度集まって、学科横断的な活動の推進を模索している。

大学の規模は随分ことなるが、同じ聖公会の大学である立教大学は、かなり充実した教育プログラムを実践しているらしい。

他学に学びつつも、神戸松蔭固有の教育を行っていきたいものである。

午後からは、大学のアクションプランに出席。少子化傾向が進む中、女子大が置かれている状況の厳しさをあらためて感じる。

イイダに大学まで迎えに来てもらい、ニレをピックアップしてから帰宅した。

夕食は鍋にした。

言いたいことを控えたり、発言に「とろみ」をつけたりすることばかりをしていた一日だったので、ストレスがたまっていたらしい。ビールと、日本酒と、ワインまで飲んでしまった。反省である。

最近は、飲酒について意識的に反省するようにしている。その一環として、飲酒関連の言及も日記に記載するようにしている。

昨晩は、ストレスがたまっていたためか(しつこい)、ワインをのみつつ、ひなあられの残りもぼりぼりと沢山かじってしまった。反省である。

 

鍋をつつきながら、イイダに「能の稽古をはじめて良かったと思う」という話をする。

仕舞や謡には、どう頑張っても年月を経ないと出てこない味がある。背伸びしてもどうすることもできない。

若い者は、自分に与えられた課題を坦々と丁寧に行うだけである。

年月を経ていくと、それに応じて重い曲を与えられるようになる。そして、そのときには、それが自分の役割と感じ、それを精一杯演じる。

いつだってふんぞり返ってはいられない。重い曲の恥ずかしい出来映えを、人のせいにすることはできない。自分に与えられた使命を意気に感じて、愉快に謙虚に、挑戦していかなければならない。

「40代の素人男の舞」などというものは、格好がつくはずがない。最初から負け戦である。しかし、どこか一点、結晶化した「何か」を表現するために、私は舞を続けるのである。

 

3月12日 ある人の死について思うことなど。そして、慶事について。

ニレを幼稚園に送ってから大学へ。

緊急の学生面談の後は、大阪で産業医。

自宅で急逝した社員(40代独居男性)があり、人事課•総務課から最近の健康状態についての問い合わせがあった。人間ドックの結果などを確認して、返答した。状況を聞くと事件性はなさそうであり、また、自死の可能性も低そうだった。

一人暮らしの部屋は物凄い荒れ様だったそうである。
現代における働き盛りの独身者のリアルな姿を、今回の突然の悲劇によって見せつけられた思いだった。

自分も独身だったら同じようなものだろう。

他のことで忙しいから掃除をしない、のではなくて、掃除をする時間を確保した上で(仕事も含めて)他のことをする、というのが健全なのだろう。現実としてはなかなかそのようには行かないわけだが、本来はそうなんだと思う。

「一人暮らしの人が亡くなった部屋が荒れている」というのは、「この世を去った後で恥をかいてしまい、故人が可哀想」ということではなくて、

自分と、自分の身の回りを大切にしきれなかった人が一人静かにこの世をさってしまった、ということに胸が痛むのだと思う。

冥福をお祈りします。

夜は凱風館で夜稽古(気の錬磨•稽古研究会)を担当。

本日は隔週で行っている合気道当事者研究の日だった。発表は藤谷さん。テーマは、「手から受信する体感を全身に伝える方法」について。稽古相手からの体感を、受け身を取りながら自分の体に伝えることの難しさについて語ってくださった。

かなり難しいテーマだと思うのだが、藤谷さんをはじめ、参加の皆さんが自分が感じていることや、大切にしていることを話してくれた。

今回はレイシャムさんも、初めて英語で発言してくれた。合気道当事者研究も国際化が進んでいる。

当事者研究初参加のイワモトドクターが、「みなさんの自分の体感を言語化する能力の高さに驚いた」と言っていた。

続けて参加している人間としてはあまり実感がないのだが、嬉しい感想だった。

稽古後は、イワモト君が新城医師と会うというので、私も合流。週末の結婚式の打ち合わせということだった。

新城医師の話から、医学生時代の過ごし方の話題になる。
新城さんは、かなりのんびり過ごしていたらしい。私もまた、低学年の頃を中心に「雨が降ったら大学へは行かない」というようなタイプの学生だった。

しかし、学士入学組のイワモト君(2013年に医学部を卒業)は、かなり真面目な学生だったようである。いわゆる「ノートを貸す側」の学生だったとのこと。

しかし、そんな彼も一回目の大学生活ではかなりのんびり過ごしていたという。

時代が変わったということもあるのかもしれないが、「結婚生活も大学生活も、2回目の方が真面目に過ごせるのではないか」という暴論を、一度も結婚していない人に対して言ってみる。

イワモト君のまわりには「他山の石」がごろごろ転がっているので、そのようなものを生かしつつ、一度目にしてハッピエストな結婚生活をおくっていただきたいものである。

彼との付き合いももう10年以上になる。なんか不思議だ。しかし、何が不思議なのかはっきりとはわからない。

しかし、それはおそらく、僕たちそれぞれが、それまでに生きてきたような生き方ではまず出会わなかった人間同士ということなのだろう。