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「M君へ語る私的身体論」⑪ 『戦争と幸福学/チクセントミハイによる関所/プラス要素とマイナス要素(フロー体験4)』

ミハイ・チクセントミハイの「幸福」を対象とした心理学の原点は、ヨーロッパ人の精神が第二次世界大戦によって深く傷つけられたというところにあります。

「私はヨーロッパで育ち第二次世界大戦のとき7歳から10歳でした。私の知っていた大人でこの戦争による悲劇を耐えることのできた人はわずかでした」

チクセントミハイのTEDトークは、この言葉から始まります。

戦争を終えたとき、ようやく取り戻した平穏の中で幸せに暮らしている人がいる。一方では、大切なものを失った深い悲しみをきっかけに、更なる人生の困難(自らの心の傷によってもたらされる絶望)に飲み込まれてしまう人もいる。

若き日のチクセントミハイは、大戦後を過ごす大人たちの様々な姿をみて、「いったい、何が人生を生きるに値するものとするのか?」という疑問を持ちました。

10代の若者にしては随分大人びた視点ですよね。
もしかするとこれは、チクセントミハイが外交官の子供として育ったことと関係しているのかもしれません。彼は、1934年に、ハンガリー外交官の子供としてイタリアで生まれています。異邦人として、コミュニティの外側から大人たちを観察する習慣を小さい頃から身につけていたのかもしれません。

スイスにおいてカール・ユングの講演を聴くという偶然の出会いを経て、チクセントミハイは22歳でアメリカに渡り心理学者になりました。そして、「幸せの根本とは何か」を研究し始め、フロー理論を提唱するに至りました。

 

さて、今回からは、この「フロー体験」「フロー理論」をチクセントミハイの著書『フロー体験 喜びの現象学』に沿う形で説明します。

これまでにも何度か言っていますが、フロー体験というのは、「自分を忘れてしまうほど行動に没入した状態」のことを指します。

チクセントミハイは長年にわたる自身の研究をもとに、一般向けへのフロー理論の解説書としてこの本を出版しました(原題 “Flow: The Psychology of Happiness”)。

1990年にこの本を出版したとき、彼は一つの危惧を序文に記しています。*1-1

 

本書は-喜び、創造、生活への深い没入過程など-私がフローと呼ぶ人間の体験の能動的側面についての20年ほどの研究成果を一般向きに要約したものである。これには多少の危険がともなう。このような問題についての議論というものは、学術論文の形式から解放された途端に軽薄(careless)なものか大げさ(overly enthusiastic)なものになりがちだからである。

 

改めて読むと、私自身が初めてこの本を手にしたときに、強い警戒心を持ちながら本を開いたことを思い出します。私もまた、軽薄で大げさな自己啓発的ツールとしてのフロー理論をこの本から押し付けられるかもしれないと思っていたのです。

しかし、チクセントミハイは著書の冒頭で、その私が抱いている警戒心について、はっきりと言及していました。そしてこの序文を読んで私は、私の心配が彼の心配でもあることを理解しました。

それが分かってからは、ずいぶん安心して読み進めることができたのですけれど、私の警戒心は完全には払拭されてはいませんでした。

「相手の最も危惧するところに一定の言及を加え、相手を安心させてから話を進める」というのは、人を騙すときの基本的なテクニックの一つだからです。

もちろん私は、チクセントミハイ教授が、人を騙そうとしてこの本を書いたとは最初から思っていませんでした。しかし、読み手を納得させるために、無意識のうちのこのようなテクニックが使用されるということは十分あり得ます。

 

しかし、少し読み進めると、私の心配はそれほど必要がないものだということがわかってきました。それはどういうことかというと、チクセントミハイはちゃんと、自分が危惧する形で本が社会に受け止められることを防ぐ装置を自著の中に仕組んでいたからです。

彼が自著に仕込んだ工夫に気づくことで私は、「チクセントミハイは本当に、フロー理論が誤用されたり、不用意な形で広まることを恐れている」と言うことが分かりました。

 

彼の危惧は、フロー理論が、「認識の科学」としての学術性から解放されたときに、「成功への方程式」的なものとして扱われることにありました。

それを防ぐために彼は、「身体のフロー」「思考のフロー」「フローとしての仕事」などの各論的な内容を紹介する前に、フロー理論の成り立ちについて説明する総論的な四つの章を配置しているのです。

中でも最初の三つ、第1章「幸福の再来」、第2章「意識の分析」、第3章「楽しさと生活の質」は難解に書かれており、「人生に成功をもたらす即効性のあるツール」を求める気持ちだけでは、ここを読み進められないようになっています。チクセントミハイは、フロー理論を理解しようとする読者に対して、一定レベル以上の心理学への学術的関心を要求しているように思います。

また、この最初の3章にフロー理論の最も重要な基礎的概念が書かれていますので(フローとはどういうものか、そして、それを得ることはなぜ難しいのか)、ここを理解しなければ、十分な形で5章「身体のフロー」以降の内容を読めないようになっています。

チクセントミハイはこのように「関所」を設けて、自著が”careless”あるいは”over enthusiastic”に扱われることを防いでいます。なかなかのやり手ですよね。

一方、心理学の専門研究者以外の立場でこの本を受け取ることを想像してみると(私もその一人な訳ですが)、「幸福についての心理学」について考えるときに、これを「社会への応用」という面から考えたくなるというのは、ごく自然な流れのようにも思います。

「ポジティブシンキング」が、ある種常識のようにとらえられている現代では、幸福感を抱くことや積極的な考え方をすることが、最終的に人生における成功をもたらすという考えに共感する人は多いのではないでしょうか。

 

幸福は幸福を呼ぶ。幸福は連鎖する。幸福の好循環を作り出すことが、成功への王道である。

 

チクセントミハイは、このような考えを強くは批判しません。しかし、彼が幸福についての科学を長年研究してきた目的は、「成功への王道」を明らかにすることではないようです。

実は、「高校生におけるフロー経験は、学業成績の向上と正の相関がある」というような研究成果が報告されていて、フロー体験を多く持つことが社会において成功することの近道である、ということもフロー理論の研究者から示されています。*2-1

ただ、チクセントミハイはあくまで、フローを「人生を生きるに値するもの」にするための要素(研究対象)として考えているわけで、社会的な成功への切り札という形でとらえることには慎重なようです。

しかし、この辺りを完全に排除しているかというと決してそういう訳でもなくて、彼は、フロー理論の社会への応用ということを、どうも研究推進に利用している節もあります。学術的な興味を研究の中心におきつつ、社会的な影響力についての配慮を欠かさないところがさすがというか、敗戦後のヨーロッパからアメリカに渡って「成功」した人間としての逞しさを感じさせます。

 

チクセントミハイが、「フローは幸福につながり、人生を生きるに値するものである」と考えていることは間違いないわけですが、同時に、フローが社会的な状況(成功)とは切り離されているというところがポイントのようです。

 

フロー経験のもたらすものについて蓄積されてきた研究は、疑いなく近年のフローへの関心の一部を説明するものである。しかし、この関心はある意味で的はずれである。個人という観点からすれば、フロー状態は一つの自己正当化された経験である。それは定義上、それ自体自己完結的なのである。*2-2

 

チクセントミハイはこのように、「(社会一般が持つ)近年のフローへの関心」が研究の本質に対しては的外れである、ということを明言しています。

また、人間が生きる上で本当に必要なもの、人間にとって人生を価値づけるものは「成功」ではないということを、彼はビクトール・フランクルの言葉を引用して説明しています。

 

成功を目指してはならない-成功はそれを目指し目標にすればするほど、遠ざかる。幸福と同じく、成功は追求できるものではない。それは自分個人より重要な何ものかへの個人の献身の果てに生じた予期しない副産物のように…結果として生じるものだからである。*1-3, *3

 

フランクルは、この言葉を彼のヨーロッパとアメリカの学生に対して発しました。

 

チクセントミハイは一貫して、幸福とは統制された自己あるいは認識のうえに産まれるものである、という考え(研究成果から導かれた信念と言っていいでしょう)をベースにして研究を進めています。

この「統制」(control)という言葉がフロー理論のキーワードです。そして、誰がどのようにこの「統制」を行うのか、ということを考えるのが、チクセントミハイのフロー研究について考えるときの肝どころのようです。

チクセントミハイは本の第1章において、彼が得た研究上の発見のことについて述べています。*1-2

ちょっと長いですが、引用します。

 

この本を書き始める25年前、私は一つの発見をしたのであるが、その後私は一貫してそれを明らかにしようとしてきた。これは大昔から知られていたことなので「発見」と呼ぶのは誤解を招くかもしれない。(中略)
私が発見したのは幸福というものは偶然に生じるものではないということである。それは偶然の産物などではない。それは金で買えたり、権力で自由になるというようなものでもない。それは我々の外側のことがらによるのではなく、むしろ我々がことがらをどのように解釈するかによるものである。(中略)内的な経験を統制できる人は自分の生活の質を決定することができるようになるが、それは我々の誰もが幸福になれるということとほぼ同じことである。

 

本書においてチクセントミハイは、この記述に続けて、ナチスの強制収容所を経験したフランクルの上記の言葉を引用しています。

そのフランクルは『夜と霧』において、精神的にも肉体的にも過酷を極めた強制収容所での生活を振り返って、

・自らの生を価値づけるものは、自分自身の考え・認識に他ならない。

・「人を愛する気持ちを糧に生きる」ということは、愛する人がこの世で生きているかどうかは本質的な問題ではない。

ということを述べています。

 

フローが生じる条件には下記のようなものがあげられます。*2-3(一部改変)

・    現在の能力を伸長させる(現在の能力よりも高すぎも低すぎもしない)と知覚された挑戦あるいは行為の機会。

・    明瞭で手近な目標、および進行中のことがらについての即座のフィードバック。

・    その瞬間にしていることへの強い、焦点の絞られた集中。

・    行為と意識の融合。

・    内省的自意識の喪失(「はじらい」とか「パフォーマンスへの自己批判」という意識がなくなる)。

・自分の行為を統制できているという感覚。次に何が起ころうともそれへの対処方法がわかっているという感覚。

・時間的経験のゆがみ(とくに時間が早くすぎるように感じる)。

・活動を行う経験自体が内発的な報酬となるので、活動の最終的目標(たとえば勝負や試験、コンクールへの絵画の出品など)がしばしばその活動を行うことの単なる理由付けとなる。

 

このように、フロー体験とは、行動が「統制」されているのと同時に、自分が統制者であるという感覚が失われている状態でもあります。

この行動が統制された状態を、「身体がうまく使えている状態」の一つの例と考えることができます。

そして、この統制状態とは、環境や状況を整えて、その中に結果として入り込むものであり、この統制状態に入ることにこだわりすぎると、あまり出会えないものです(統制者という自意識が邪魔をする)。

 

ですから、統制を得るためには自分の中での環境づくりが大切であり、それは積極的にその環境をつかみ取るために何が必要かということよりも、「何が統制を妨げるのか」「フローを妨げるものは何なのか」を知ることが、私たちの身体論では重要になります。

「プラス要素をつかみ取る」という姿勢が目的の達成を遠ざけるならば、「マイナス要素を減らす」ということが私たちにできることになります。

 

フロー理論は、人間の強みや、建設的な特質について研究するポジティブ心理学における主要な学術領域の一つと位置づけられていますが、この理論の最も重要な点は、結局のところ、「積極的によい状態を獲得する方法」というよりも、「目的達成のための障害を除去する」「目的達成のための障害が何かを知る」ということから成り立っているように思われます。

 

というわけで次回は、チクセントミハイがどうして「何が人生を生きるに値するものとするのか」という研究をするうえで、フロー体験を取り上げることになったのかというところから始めて、「フローとフローを妨げるもの」のことについてお話します。

 

 

 

 

 

*1-1『フロー体験 喜びの現象学』序ⅶ(世界思想社)M.チクセントミハイ

*1-2 同 p2

*1-3 同 p3

 

*2-1「フロー理論のこれまで」M.チクセントミハイ, J.ナカムラ p22, 『フロー理論の展開』(世界思想社)

*2-2 同 p23

*2-3 同 p2

*3 “Man’s Search For Meaning: The classic tribute to hope from the Holocaust” Frankl, Victor E.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「M君へ語る私的身体論」⑩ 『自殺に関する対談/大学生と授業/フロー体験と依存症をつなぐもの(フロー体験3)』

先日、末井昭さんと岡檀さんの対談を聴きに行ってきました。

お二人は、2013年に自殺をテーマにした本をそれぞれに出版していて、今回の対談は末井昭さんの本の出版記念イベントとして企画されたものでした。

岡さんの『生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由がある』という本は、「自殺予防因子」についてのフィールドワークの成果を紹介したものです。日本でもっとも自殺率の低い徳島県旧海部町のことが紹介されています。

一方、名物編集者の末井さんは、ご母堂がダイナマイト心中をしたというすごいエピソードを中心として、自殺の周辺にまつわるあれこれを、体験を中心に書いておられます(体験といっても、自殺未遂ではないのですが)。

対談には、進行役として小堀純さんが同席していました。小堀さんは、中島らもの本などを出版している編集者で、現在は大学で教育活動も行っているそうです。対談の途中でその小堀さんが、気になることを言っていました、

「学生に自殺のことについて考えてもらいたいと思い、末井さんの本を紹介したり、自殺についてどのようなことを考えるか学生に聞いてみたりするのだけれど、とても反応が薄い」

ということでした。

私は岡さんと末井さんの本を非常に興味深く読んだので、実はこのイベントもかなりの盛況なのではないかと覚悟していったのですけれど、聴衆は30人弱くらいでした。正直なところ拍子抜けだったというか、お二人の本の面白さと、自殺について違うアプローチをした二人が対談するという意義を考えると、もっと多くの人が集まってもよいのではないかと感じました。私もまた、「社会の人たちの、自殺に対する反応が薄いな」と思ったわけです。

そして、少し考えてみると、私も小堀さんの発言と同じような経験をしていることに気がつきました。

以前にも書きましたが、私は相愛大学の学生諸君に

「これから一緒に「現代社会における身体の使い方」について考えて行きます。「身体をうまく使えている状態」と、「身体をうまく使えない状態」のどちらから考えて行きましょうか?」

と尋ねました。

すると、「身体をうまく使えている状態」について考えたいと答えた人が圧倒的に多く、「身体をうまく使えない状態」について考えたいと言う人はほとんどいなかったのです。

 

かつての私だったら、このようなときに「今時の大学生は仕方が無いなあ」と不満の一つもいって終わらせていたのかもしれません。しかし、今の私は大学教員が主な仕事の一つなので、そんなことを言っていられなくなってしまいました。

このような状況について、小堀さんや私は、どう考えたらよいのでしょうか。

 

大学という場所に限って言うと、授業において大学生にやる気を起こさせるには、いくつかのコツがあります(いつか役に立つかもしれませんので、M君も頭の片隅にメモしておいてくださいね)。

男子大学生に対しては、明るい希望を抱かせることが重要です。それぞれの才能を認め、「授業に参加することで、君の潜在能力が開花する可能性がある」ということを示すと、男子学生はやる気を見せます。

一方女子学生はよりリアルな世界を生きていますので、彼女達には実利面でのメリットを強調する必要があります。

「この授業を通して○○を行うことで、あなたはこのような実利益を得られる」ということを明確に伝えると、女子学生はやる気を見せます。

最近は、「男子大学生の女子学生化」が進んでいて、男子大学生もまた実利重視傾向を示すようになっています。

こういうことを言うと、「大学の授業とはそんなものじゃない」とか、「何をそんなせせこましいことを言っているんだ」とか、「学生に対しておもねりすぎだ」とか言う声が聞こえてきそうなんですけれど、そういうことでは無いんです。

私が言っているのは一種の装置であって、極端な話、ウソでもいいわけです(私はウソは言いませんが)。授業における、教員と学生の間の回路をきちんと作るための工夫と思ってもらったらいいでしょうか。

 

授業というのは、ときには学生にとってあまり面白くないトピックを扱わざるを得ないということがあります。

そして、そういうときほど、そのトピックを学ぶ理由を示す必要が出てきます。

たとえば、「自殺について考える」という場合でも、学生があまり気が進まないようであれば、そのことについて授業で考える理由を説明するということです。

しかし、自殺の場合は、問題が問題ですから、このトピックを授業で扱う理由を一方的に突きつけて強引に話を進めるというのではなく、できれば学生の方から、わずかでもいいからこの問題へ耳を開いていく方向性みたいなものを持ってもらいたい。

 

しかし、大学生の立場になって考えてみると、それも中々難しいことでもあります。

大学で授業を受けている大学生というのは基本的に、「いかにしてうまく社会の波にのって、スムーズに生きて行くか」ということを最大の関心事としている人たちです。

ただ、社会の波にうまく乗ってスムーズに生きて行くためには、「あんまり良くない状態」のことも知っておいた方がよいので、小堀さんや私は、自殺のことや心身の状態が良好とは言えない状態のことについて話そうとしたわけです。

けれど、大学生のみなさんは、社会人としての生活が始まる前から「良くない状態」のことを考えるのは、「つまらない」、「そんな暇は無い」、「考えたくない」、「今からそんなことを考えるのは縁起が悪い」と思うのかもしれません。

 

しかし、何とかもう少し自分の守備範囲(ものを考える領域)を増やすことはできないかとも思うのです。実は大学生として学ぶべきもっとも大切なことは、物事についての個々の知識を増やすことではなくて、この「考えることの守備範囲を広げていく方法」ではないでしょうか。

たとえば、「自殺について考える」ということは、それを必要としている状況では非常に大切なことです。年齢と関係なく、自分自身の自殺について考える時や、近しい人の自殺に接した時が一番わかりやすい「その時」でしょう。

しかし、もし自分自身の個人的な体験として、自殺について考える理由がみつからなかったとしても、やはり自殺の問題をできるだけの想像力を働かせて考えてみてもらいたいと思うのです。

 

では、どうすれば、あまり気が進まないテーマについて、興味を抱いて考えることができるのでしょうか。

テーマに対して最初からネガティブな印象を持ち、ネガティブな雰囲気に包まれてものを考えても、あまりいいアイディアが浮かんでくることはなさそうです。テーマに対する自分の心象はちょっとだけ脇に置いておいて、対象について、「できるだけ分析的に考える」という態度がポイントだとのように思います。

あるいは、「わからなさ」とか「つまらなさ」とか「興味を持てない理由」というものをかみ砕いて、その「要素」を言葉にしていくことが大切ではないでしょうか。

何らかの社会問題について考えるとします。できるだけ、これまであまり興味がなかった事の方がいいでしょう(「ジェンダー」でも、「民主主義」でも、「少子化」でも、「ももいろクローバーZ」でもなんでもかまいません)。そして、そのテーマが有している特徴や問題の要素を、自分なりに分析的に考えてみてください。そうすると、今までではしたことが無かったような自らの知性の駆動が感じられます。

 

自分が元々興味を持っていたり、好きなことを考える時に脳が活性化するのはある意味当たり前のことですよね。しかし、元々はあまり興味が無くても、それに対するアプローチを工夫することで、自分の脳を活性化し、知性を存分に発揮できるようになれば、生きる上で充実した時間が増えていくことになります。

ポイントは、「なぜつまらないと感じるのか?」を考えることです。

面白い人や面白いものについて、「どうしてそれが面白いのか?」を考えると、それについての面白さはちょっと目減りしてしまいます。

同じように、つまらないものや、悲しいことに接した時に、「どうしてこれはつまらないのか?」「どうしてこんなに悲しいのか?」と考えると、人間のつまらなさや悲しさって減るんですよね。

カウンセリングを含めた心理療法では、人間のこのような意識の働きをうまく利用しています。

 

説教くさい話になって嫌なのですけれど、実はこれも本題につながる話なので、ちょっとだけおつきあいください。

 

突然ですけれど、「いつも楽しそうにしている人」っていますよね。

でもそれは、自分で楽しいと思うことばかりを選んで行っているわけではなくて(そのような幸せな人ももちろんいるわけですが)、何をやるときでも楽しめる人が楽しく生きている人ということが言えそうです。

自殺の問題を考えることは大変なことですが、その問題ときちんと向き合うことで、その時間を充実させることができます。そして、そのような形で自殺について考えることは、充実した時間を過ごすと言うこと以上の報酬(自殺予防上の意義)をもたらすかもしれません。

実は、このような考え方は、これから取り扱う「フロー理論」と関連が深いものなんです。

 

「フロー体験」とは、我を忘れるほど、行動に没入した状態のことを言います。また、最初は何か別の目的の為に行っていた行動が、(あまりにも充実していて)その行動を行うこと自体が目的化した状態のことを指します。

 

たとえば大学生が、授業の課題として自殺に関するレポートを書かなければならないとします。

その大学生が調べ物をしていて、岡檀さんの「日本の自殺希少地域における自殺予防因子の研究」に巡り会い、「自殺率と、国土の地理的特徴の関係」に興味をもって、論文を読むことに深くのめり込んだような状態のようなことを言うわけです。

フロー体験はこのように、「手段の目的化」と言い換えることができます。そして実はこの「手段の目的化」というのは、依存症の成り立ちを説明する上でも重要な考え方なんです

 

たとえば、「仕事で早起きしなければならないため寝酒を飲むようになったのだが、飲酒が高じてアルコール依存症になってしまった」という人がいるとします。

この場合、飲酒の最初の目的は「アルコールを摂取することによって寝付きを良くすること」でした。それが、アルコールの摂取を続けているうちに、飲酒自体が目的に変わってしまうわけです。

このようなケースを「手段の目的化」と言うわけです。

 

そして、フロー体験もまた同じ枠組みを持っているということは、さきほどの大学生のレポートの例で分かっていただけると思います。人間の「良い状態」と、「問題を抱えた状態」というのは、本当に紙一重なんですよね。

では、依存症とフロー体験で見られる「手段の目的化」は、どのような点で違いがあるのでしょうか。これは、後ほどお話させてもらいます。

 

フロー理論では、このように手段を目的化させて充実した体験を行っている人のことを「自己目的的人間」(オートテリックパーソナリティ Autotelic Personality)と言います。

対外的、社会的な利益や責任を果たすことを目的とした人ではなくて、自分の中で感じる喜びを目的として生きている人というような意味です。

フロー理論の研究者は、この内発的な報酬(自分の中から出てくる喜び)がどのようにして生まれて、どのようなものとしてその個人に影響を与えるのかということを研究しているわけです。

フロー体験というのは、ある特定の状況において人間が感じる認識のことです。古くから人間が持っていた感覚であり、フロー体験、フロー理論の提唱者であるM.チクセントミハイは、もともとあったこの感覚に、名前をつけた人だということになります。

では、チクセントミハイはどうしてこのようなことを行ったのでしょうか。次回はここから始めたいと思います。答えは前回示したTEDトークに入っていますので、興味があればご覧になってください。

本当は今回、ここから始めたかったのですけれど、M君とお話しするのは楽しいので、つい前振りが長くなってしまいました。ごめんなさい。

 

私は、チクセントミハイが提唱するフロー体験を「身体をうまく使えている状態」の一つの例として使用しています。

フロー体験・フロー理論についてはいくつかの疑問点があることはあるのですけれど、チクセントミハイの主著*1については「人間の認識について考える研究領域である」という前提を大切にしているという点で、一読に値するものだと思っています。

次回以降は、このチクセントミハイの本にそって話を進めます。

何度も引用していますが、良くできた本です。この本がアメリカで出版されたのは1990年で、今から実に24年前です。その後のフロー研究の動向を調べましたが、この分野でもっとも重要なことはすでにこの本の中で示されています。

逆に言うと、「ポスト・チクセントミハイ」の発展が難しそうな研究分野ということが言えそうです。

 

 

*1「フロー体験 喜びの現象学」(世界思想社)M.チクセントミハイ

 

「M君へ語る私的身体論」⑨ 『ポジティブ心理学』を読む(フロー体験2)

【ポジティブ心理学とプロテスタンティズム】
ポジティブ心理学(Positive Psychology)は、ペンシルバニア大学のマーティン・セリグマン教授が1998年に提唱した新しい研究分野です。

アメリカ心理学会(APA)のデータベース(PsycINFO)による “Positive Psychology”の 定義づけを見ると、

「精神病理や精神機能障害に焦点を当てるのではなく、楽観主義や、人間におけるポジティブな機能を強調する心理学的アプローチ」”Approach to psychology that emphasizes optimism and positive human functioning instead of focusing on psychopathology and dysfunction.”

とされています。

APA会長を務めていたセリグマン教授は、従来の心理学が疾患を扱うことに偏りすぎていると感じ、人間の長所について科学的に研究することの必要性を訴えました。

ポジティブ心理学は、人間の長所や強みとはどのようなものか、そして、どのようなときに人間は幸福を感じられるのかということを研究しています。この分野の研究者は、新規治療薬開発の治験で行われるような、ランダム化比較試験(対象者を無作為に割り振って、介入行為の影響を検討する)を積極的に取り入れて、「幸福をつかむ」ことの手がかりを解明することを目指しています。

こちらに、1998年のアメリカ心理学会で、セリグマン教授が行った会長講演「21世紀の心理学の2つの課題」の一部を抜粋します。教授はこの講演の中で、20世紀後半における心理学が取り組むべき課題の一つ目を、民族問題への対応であるとしており(1998年当時、内戦が激化していたコソヴォ紛争を背景とした発言です)、もう一つを「ポジティブ心理学」だとしています。

 

対応を求められている2番目の領域は、私が「ポジティブ心理学」と呼んでいるもので、ひとりひとりの最も建設的な特質である、楽観性、勇気、職業倫理、未来指向性、対人スキル、喜びと洞察の能力、社会的責任などがどういうものであるかを理解し育成することを重視する、新しい方向を目指す科学である。私の見解は、第2次世界大戦が終わってからの心理学は(中略)、精神的な疾患を治療するという方向に向かいすぎているというものである。*1-2

 

セリグマン教授のTEDトークがこちらにあります。
こちらには、教授がどのような経緯でポジティブ心理学の研究を行うことになったのか、そして、ポジティブ心理学では「幸せな人生」の要素としてどのようなものをあげているのか(ポジティブ感情・充実感・意義)について説明をしています。

(“Martin Seligman: The new era of positive psychology” http://www.ted.com/talks/martin_seligman_on_the_state_of_psychology)

心理学者が、病的な状態だけではなく、良好な状態についての研究を行う必要性を感じたというのは、理屈としては理解できます。
ただ、この会長講演とその後のポジティブ心理学研究が進められた方向性のベースにはアメリカ的価値観、プロテスタンティズムに基づくアメリカの市民宗教(肌感覚のように気化した宗教性)的行動規範が存在するということを指摘しておかなければなりません。

私は宗教の専門家ではありませんから、宗教に関する基礎事項は、比較宗教学者の釈徹宗先生の力をお借りして、お話したいと思います。

 

16世紀の宗教改革に端を発した思想であるプロテスタンティズムは、ローマ・カトリック教会の教理と伝承に反対し、聖書を重んじるという特徴があります。プロテスタンティズムは個人の信仰を重視することから、個人主義やリベラリズムへとつながります。(参考 *2-1)

釈先生は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を解説する形で、プロテスタンティズムについて以下のような説明をしています。*3-1

 

あらゆる誘惑に打ち勝ち、天職である職業労働に励む。それは自己の信仰表現なのです。そのために発達したのが合理主義です。プロテスタンティズムに合理主義的傾向が強いことはしばしば指摘されています。

誘惑に負けない世俗内禁欲、勤勉で誠実な労働者。そして資本を浪費することなく、次なる展開へとつぎ込み、資本を増やす。増加、発展、成長が自己目的となるのです。ウェーバーは、このような自己目的化した労働に勤め励むメンタリティは、人間が生まれつきもっているものではなく、信仰や理念がなければ成り立たない、と述べています。

 

ポジティブ心理学は、PsycINFOによって「楽観主義や、人間におけるポジティブな機能を強調する心理学的アプローチ」と定義づけられていました。

 

プロテスタントは、「増加、発展、成長」と言った目的を達成することを求めています。そのような背景において、ポジティブ心理学は、プロテスタントの目的にかなったものとして誕生しています。

多様な教派を含んでいるプロテスタンティズムと楽観主義(Optimism)を安易に結びつけることには慎重でありたいと思うのですけれど、私にはこの2つの考え方の間にも関連があるように感じられます。

マックス・ウェーバーは、プロテスタントのカルヴァン派が持つ予定説(人間が神によって救われるかどうかはあらかじめ決まっている、という考え方)が、資本主義を発展させたと考えました。

どうしてこのような考え方が資本主義を発展させたかというと、カルヴィニストたちが「神に救われるようにあらかじめ定められた人間は、禁欲的に天職(ベルーフ)に励み、成功する人間のはずである」というふうに考えるからです。

予定説では、自らが神の救済を得られる人間なのかどうかは分からないとされています。
カルヴィニストはそのときに、「どっちみち神に救われるかどうかは決まっているのだから、まじめに働いても働かなくても一緒だ」と考えるのではなく、

「私は神に救われるはずの人間である。神に救われる人間とは、仕事に励み、成功するような人間だろう。だから私は社会的成功によって、自分が救われる人間であることを証明するのだ」と考えるのです。

神によってあらかじめ決定されてはいるが人間には不可知のことについて、最高の結末を信じて努力するというのは、ひとつの楽観主義と言えるのではないでしょうか。

 

今気がついたんですが、「天は自ら助くるものを助く」(Heaven helps those who help themselves)というのはカルヴィニズムと関わりの深い言葉ですね。

私はこれまで、この言葉を単に「自分で自分を救うべく努力する人は、その行為の報酬として神の救済を得ることができる」という意味だと思っていました。でも違うんですね。これは、予定説を前提にした言葉のようです。

「自ら助くるもの」のことを、そのあり方自体が「神の救済を得る人間の証明」であるとカルヴィニストは考えます。

このちょっと不気味なくらいの思い込みの強さは、東洋人には簡単に太刀打ちできない行動力につながるように想像します。

「私はこのような人間になりたい」という希望よりも、「私は神の救いを受ける人間である。そして私はそのことを証明する」という意思の方が、物事を成し遂げる力は強いのではないでしょうか。

 

セリグマン教授は、ポジティブ心理学と特定の宗教の関係については言及していません。しかしこの場合のように、キリスト教(特にプロテスタント)的な価値観が抽象的に表現されるのがアメリカの「市民宗教」の特徴だと言えます。*4

アメリカ心理学会は、「科学と宗教の融合」を目指しているテンプルトン財団からの支援をうけて、「ポジティブ心理学賞」 (The templeton Positive Psychology Prize)を表彰しています。このことからも、ポジティブ心理学と宗教の関係を窺うことができます。

テンプルトン財団は他に、ポジティブ心理学の研究者を支援するために、セリグマン教授の名前を冠した”Martin E.P. Seligman Award”も設置しています。

さきほど引用したセリグマン教授の会長講演の中では、「勇気」「未来指向性」「対人スキル」「社会的責任」といったものが、「建設的な特質」(=価値あるもの)としてあげられています。また、前述のTEDトークの中でセリグマン教授は「精神療法によって、病んだ人をゼロに戻すことはできる。しかし、それでは空っぽのままである」

ということを言っています。

セリグマン教授は「人間は空っぽのままではだめで、前進・成長していくことに人生の価値がある」という考えを持っており、このことがポジティブ心理学の重要性を主張することの前提として存在しているようです。

 

【プロテスタンティズムと日本的霊性】
「建設的な特質」に大きな価値を見いだす思想というのは、日本においても、ビジネスの世界や学校教育の現場でもなじみ深いものと言えます。たとえば科学研究は、フロンティア精神に基づいて発展してきたという側面がありますから、(キリスト教徒が大多数とは言えない)日本においても、分野によっては「未来指向性」がはっきりとした価値になっていると言えるでしょう。

ちなみに、日本の研究者や文部科学省は、この「フロンティア」という言葉が大好きです。「大規模学術フロンティア促進事業」(文部科学省)、「免疫学フロンティア研究センター」(大阪大学)、「ゲーム理論のフロンティア」(大型科学研究費補助金の研究課題名の一つ)といったようにこの言葉が使われています。

何となく未来に向かって突き進む積極性や力強さが感じられる横文字ですよね。この言葉が含んでいるそのような雰囲気が好まれているんだと思います。

このように、日本の中でも「建設的な特質」を人生における高い価値と考えることは生活の中にかなり入り込んでいます(もちろん私の中にもあります)。

 

また、釈先生は、日本文化の中にあるプロテスタンティズム的なものの例として「少年マンガ」をあげています。週刊少年ジャンプが「努力・友情・勝利」を編集方針として掲げてきたことは有名ですが、釈先生は少年マンガ誌に溢れているプロテスタンティズムについて『スラムダンク』を例にあげて説明されています(『スラムダンク』でわかるプロテスタントの世界)。*3-2

釈先生は、少年マンガには、良い意味での「煽り型プロテスタンティズム」があるということを指摘しています。

もちろんこのことは、多くの少年・少女の「健全な成長」に寄与してきたわけなのですけれど、私は、どうもこのような考え方が、日本人の身体に染みついている仏教的な思想との間に、ある種の「ぶつかりあい」「分裂」をもたらしているような気がしています。

たとえば、

一般社団法人日本ポジティブ心理学協会という団体があり、この団体のウェブサイトでは、ポジティブ心理学の事が紹介されています。

(「ポジティブ心理学とは?」http://www.jppanetwork.org/positivepsychology/aboutpp1.html)

 

セリグマン教授の紹介に始まり、それに引き続いて、ポジティブ心理学の社会における活用例として、マイクロソフトやグーグルなどの大手企業でのポジティブ心理学の導入例、陸軍兵士の教育プログラムへの応用などがあげられています。

また、イギリスやオーストラリアでは小学校からの学校教育において「ポジティブ教育(ウェルビーイング教育)」が行われていること、中国でもポジティブ教育導入を検討する流れがあるということが紹介されています。

M君は、もしこの「ポジティブ教育(「建設的な特質」を伸ばすような教育)」というものが、日本の小中学校の教育現場に義務的に導入されるとなったらどのように感じるでしょうか?

私は、個人的な性格傾向として「建設的な特質」を持つ人や、その価値を重視する人を否定する気持ちはありませんが、このような思想を学校教育の現場に持ち込むことには、違和感を持ちます。

そしてこの違和感は、私の中での二つの思想のぶつかり合いから来ているものです。

 

私は先ほど、「日本人の身体に染みついている仏教的な思想と、プロテスタンティズムが日本人の身体の中でぶつかりあっているのではないか」ということを言いました。

簡単に「日本人の身体に染みついている仏教的な思想」と言ってしまったのですが、これは、言い換えると「日本版の市民宗教」に近いものだと思っています。

そしてこの「日本版の市民宗教」がどのようなものかというと、鈴木大拙の言う「日本的霊性」について考えるとイメージしやすい気がします。

鈴木大拙は、

霊性を宗教意識と言って良い。ただ宗教と言うと、普通一般には誤解を生じ易いのである。日本人は宗教に対してあまり深い了解をもっていないようで、或いは宗教を迷信の又の名のように考えたり、或いは宗教でもなんでもないものを宗教的信仰で裏付けようとしたりしている。それで宗教意識と言わずに霊性と言うのである。*5-1

それなら霊性の日本的なるものとは何か。自分の考えでは、浄土系思想と禅とが、最も純粋な姿でそれであると言いたいのである。 *5-2

 

と言っています。

前述のようにプロテスタントは、個人が聖書を通して神と向き合うことを重視します。一方、浄土系思想でも個人の内面、個人の信仰を重視するという傾向があります。ただ、この場合の「個人」の考え方が随分異なっているようです。

プロテスタントは、神と直接関係を持つもの、神の救済の対象として一人一人の個を認識しています。一方鈴木大拙は、日本的霊性が現れる個のことを、自己否定の経験を乗り越えた「超個己性の人」であると言っています。

 

超個の人は、個己と縁のない人だということではない。は大いに個己と縁がある…。彼は個己を離れて存在し得ないと言ってよい。それかと言って、個己が彼だとは言われぬ。超個のは、そんな不思議と言えば不思議な一物である、「一無位の真人」である、「万象之中独露身」である。この人が感ずる物のあわれが日本的霊性の律動である。
この超個のが本当の個己である。『歎異抄』にある「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という、この親鸞一人である。(アンダーラインは、原文では傍点)*5-3

 

プロテスタンティズムと浄土系思想は、同じように「個人」の宗教性・霊性を重んじる傾向がありますが、その個人のとらえ方がかなり異なっていることがわかります。

 

私はどうも、現代日本人の抱える生きづらさの一部は、一人の人間の中で、プロテスタンティズムから導かれた「建設的な特質」に価値を見いだす自分と、「超個」の思想を持っている自分がぶつかりあうことからきているような気がします。私自身もこの「ぶつかり合い」、「分裂」とともに育ち、現在もまたその只中にいます。

 

書物からの引用だけをあげて話をしてきましたが、私が考えている「日本人における市民宗教的感覚(日本的霊性)」について身近な例をあげて説明したいと思います。

今回とりあげるのは、私の妻のエピソードです。

 

私の妻は、大学文学部の教員をしていて、近現代の日本文学を主な研究領域にしています。私と彼女が出会ったのは2004年の夏ですが、それまで彼女はカリフォルニア州のスタンフォード大学に1年間在籍していました。

所属していた神戸女学院大学で1年間の研究休暇を取り、それを利用してアメリカに行ったのだそうです。

研究上の目的もあったそうですが、そのときはかなり精神的にまいっていて、将来についての漠然とした不安が大きく、休養を取りたいという気持ちが強かったそうです。いわゆる「どん底状態」でした。

 

彼女はクリスマスの夜に、一人でスーパーへ買い物へ行き、買い物袋を下げてスーパーから駐車場へ戻ってきました。そして、車へ荷物を乗せて、自分も車へ乗ろうとしたとき、ふと空を見上げました。

すると目の前に、一本の大きな木がありました。

とても大きな木で、てっぺんまで見るには、顔をかなり上へ向けなければなりませんでした。そして、クリスマスの夜空に静かに立っている木を、彼女は心の底から「美しい」と思いました。

そのとき彼女は、

「この世界には、自分と全く関係のない生があること。そしてその自分と全く関係のない生である木が、本当に美しいものであること」

に気がつきました。

彼女はこの経験を通して、自分はそれまでの人生において、美しいものを見たときに、自分の「喜び」の中にその美を回収し続けてきたということがわかりました。

 

しかし、この目の前の大きな木は、自分とは一切関係のないものとしてこの世の中に存在しています。そして、なおかつ美しい。

この経験を通して、「自分の人生には全く意味が無い」ということが彼女の腑に落ちたのだそうです。

突然の感覚でした。

そして、その経験を経て色々な事が説明できるようになったそうです。

 

人生における、ごくごく小さな出来事のようでもありますが、これは彼女の人生において、非常に重要な経験になっています。

 

「出来事のサイズ」と、個人の中での出来事の重要性は必ずしも相関しないということの一つの例とも言えそうです。

そして私には、このエピソードの中に、日本人が持つ市民宗教的感覚、あるいは日本的霊性が現れているように思います。

 

彼女はその頃仏教関係の本をかなり読んでいたそうで、そのことと、このような感覚を得たこととの間には、何らかの関係があるのかもしれません。

また、「海外生活中に偶然出会った一本の木」という状況が、彼女の言葉で言う「自分とは関係のない生の存在」に気づかされたきっかけとなっているようです。

 

仏教のことを「関係性の宗教」という言い方で説明することがあります。

これは、私の理解では、「関係性(縁)の中でしか個というのは存在しない」というような意味だと思います。

そして彼女は、自分というものには全く意味が無くて、その意味の無い自分と木が出会ったということにのみ、自分の生を感じたということではないでしょうか。

彼女とパロアルトの一本の木の間には、そのような形で縁があったのでしょう。

繰り返しになりますが、私にはこのエピソードには、とても日本的な宗教感覚が溢れていると思います。しかし、これはどうも、「分かる人には分かるけれど、分からない人には分からない」というものでもあるみたいです。

実際、この経験をした後彼女は、日本に住む大学時代の友人とのメールのやりとりで、上記の話をしたのだそうです。

「自分の人生に意味が無いということをはっきり感じた」と、彼女が友人に対して伝えたところ、その同級生は「いや、イイダさん(彼女の名前です)の人生にはちゃんと意味があるよ」と慰められたのだそうです。

その返信メールを読んで彼女は、同級生の思いやりに感謝するのと同時に、自分の感覚がきちんと伝わっていないということも分かったということでした。

 

かたや「人生に意味は無い」という気づきによって救いを得た人間がいます。それに対して、

「おめでとう」でも、「温かい風呂に入って寝なさい」でもなくて、「いや、あなたの人生には意味があるよ」と慰めの言葉をかける人がいる。

 

イイダの気づきは日本的霊性に根ざしたものだと思いますが、この同級生の「慰めの言葉」は、それとは少し違っていて、むしろキリスト教に近い考え方です。そもそも、「慰める」という行為自体が、キリスト教的なような気もします。

 

私はこのイイダの優しい同級生の方と(電話だけですが)何度か話をしたことがあります。私よりも少し年上で、1960年代生まれです。

もともと大変優秀な方だったそうですが、大学卒業の時点から精神の落ち込みが続いていて、卒業以来ずっとご実家で過ごされている方です。

 

そのような状況を踏まえた上で、「あなたの人生には意味があるよ」という彼の慰めの言葉のことをあらためて考えてみると、一人の日本人の中に渦巻くさまざまな精神性に複雑な思いを抱いてしまいます。なんと優しく、なんと切ない言葉でしょうか。

 

【二つの思想のぶつかり合い】
プロテスタンティズムに見られる「建設的な特質」に何の疑いも持たない人というのは、非常に強いです。

それが人生における最上の価値なのですから、どんどん「勇気」「未来指向性」「対人スキル」「社会的責任」を追求していけば良い。もちろん、そのやり方に疲れたら休む必要があるかもしれません。でも、少し休んだら、再び同じ道を邁進すれば良い。

しかし、現代を生きる日本人の中には、自分が追求しなければらないと思い込んでいる「建設的な特質」に対して疑問を投げかけるような、もう一つの仏教的な思想があります。当然、人によって、その程度は異なるわけですが、「空」に代表される仏教的な思想は、「増加、発展、成長」が信仰の実現と考えるプロテスタントとは随分異なっています。

「自己の幸福を追求する」という考え方は仏教には無いはずで、むしろ自我をできるだけ小さくすることが人生の苦悩を減らすと考えます。かたやプロテスタントでは、幸福の追求は信仰実現の目的だったり、方法となっています。

私は宗教学の専門家ではないので、このくらいにしておきますが、生きづらさの原因を、個人の中に内蔵された2つの宗教的文化のぶつかり合い(「建設的な特質」と「空」のぶつかり合い)と考えることは、自分の中で、結構腑に落ちるところがあります。

 

少し見方を変えると、「個人の中での伝統的主流宗教のぶつかり合い」というのは、夏目漱石を代表として、近現代を生きる日本人が持つ継続的な「悩みのパターン」なのかもしれません。

しかし、現代社会における「経済合理性」は、元をたどればキリスト教的価値観のもとで広がっており、個人の中、特に社会的立場の弱い若者において、ここまで2つの宗教的文化がぶつかり合った時代はこれまでになかったのではないかと思うのです。

かつて、この「悩みのパターン」は、(漱石のように)ごく少数の知識人において象徴的に見られるものでした。しかし、現代においては、若者を中心とした個人個人が突きつけられる問題として、これまでにない広がりと深まりを見せています。

 

戦後日本の高度経済成長の時代には、生活実感の向上というベクトルが、西欧的(キリスト教的)価値観と一致しており、個人の中での宗教感覚のぶつかり合い、分裂というのは今ほど問題にならなかったのだろうと思います。

しかし、国際競争力の低下、経済成長の鈍化は、経済合理性に代表される西欧的(キリスト教的)価値観の負の側面を一人一人の人間にもたらし始め、あらためて今を生きる日本人に「キリスト教的文化と仏教的文化のぶつかり合い」をもたらしたのではないかと思います。

 

宗教的感覚というのは人それぞれ違うものであり、この私の暴論が現代日本を生きる人たちの苦悩のすべてを説明するものだとは思っていません。しかし、このような考えをすることで、自らの苦しさを和らげられる人も、少しは存在するような気がするのです。

 

平成生まれの大川君が、「日本人における伝統的主流宗教のぶつかり合い」という話を聞いて、どのような感想をもたれるのか、実感が伴うものなのかどうか興味があります。

釈先生は、複数の宗教が現代社会にどのような影響をもたらしているか、ということについて大変わかりやすく解説されています。興味があればぜひ『ゼロからの宗教の授業』を読んでみてください(「宗教感覚の個人の中でのバッティング」ということについて釈先生は、カトリック教徒であった遠藤周作について言及しておられます)。

 

ひょっとすると、今後日本においても、国際競争力のある人材を育てる準備として、小中学校でポジティブ教育が導入されるということがあるかもしれませんね。

そのくらいだったら、伝統的主流制度宗教を比較する授業を行ってもらいたいです。これはそれこそ、他の先進国ではできない、非常にユニークな(日本という国に特徴的な)人材を育てることにつながるような気がします。

 

【「健全モデル」についての研究は、「疾患モデル」研究の単純な裏返しなのか】お話してきたように私は、ポジティブ心理学とそれにまつわる状況に対して、ある種の警戒心を抱いてしまっています。

そして実は、私がポジティブ心理学に警戒心を持ってしまうのは、宗教的な背景との関連だけではありません。

私は、医師あるいは医学研究者としてポジティブ心理学に接したときにも、考えなければならないいくつかの問題があると感じています。

従来の心理学研究は、「疾病や障害が回復する」「問題が無くなる」ということを指標にして、科学的研究を進めて来ました。しかし、「ポジティブな心性を科学する」ということは本当に可能なのでしょうか。

疾病や障害は、細胞から個体レベルまで、特定の細胞現象や症状をもたらします。しかし、人間の「ポジティブな状態」、「良い状態」というのは、特定の細胞現象や心身の表現との間に因果関係を説明できるものなのでしょうか。

「良い状態」というものは、個体において、ときには静かなものであり、ときには躍動的なものです。単一の現象としてそれを定義することはできません。

より小さな現象のことを考えてみると、細胞のレベルでは「良い状態」と「悪い状態」のことは、「順調に機能を果たしている状態」と、「問題を抱えた状態」の間にいくつかのグラデーションがあるという理解になると思います。

「問題がある」という状態は、1つの指標を使用して観察することができます。しかし、細胞や個体が「順調に機能を果たしている状態」というものは、複数の(普通は非常に多くの)指標について「問題が無い」というかたちでしか確認することができません。

もちろん、個体においては、特定の良い状態(笑うとか、脳波検査でアルファ波が出現するとか)を指標に研究することもできるでしょう。しかしそれは、非常に限定された、時間的にも短い指標にしかなりません。

このように、「病気である」ということと、「健康である」ということは、少なくとも状態の確認方法の上では、裏返しの関係ではないわけです。

(繰り返しになりますが、「病気であること」は、1つの問題を有するということで証明できますが、「健康であること」は、何か1つの指標で説明することはできないということです。)

となると、疾患モデルを扱うことと異なり、ポジティブな心性を研究対象として扱う場合は、特定の現象を指標にして研究を進行させることが難しくなります。

ですから、研究のテーマを「問題解決」から「良い状態の分析」に変えるということは、単に観察する対象を変えるということではなく、研究方法を根本的に考え直すところから始めなければなりません。

 

科学とは、裁判員裁判みたいに、「多様な生き方をしてきた人間の意見を集めて、多数決で最終結論を出す」というようなものではありません。再現性がある形で、特定の状況とその原因の関係を説明することが必要であり、その「説明方法の説明」にこそ、もっとも注意が払われなければなりません。

現在のポジティブ心理学は、ポジティブな生き方をするために必要なことを科学的に解明するというよりも、疫学研究的な面が強いようです。

たとえばこれには、「フリーランスの職業を選んでいる人は、自分の人生に幸福感を持っている割合が高い」といったような「相関研究」があります。

もちろん、これはこれで意義のある研究ですが、相関研究は、物事の明確な因果関係を証明する方法ではありません。研究結果の解釈や扱いには、慎重さが求められます。

まだ歴史が浅いポジティブ心理学に対する社会の関心は今後も高まっていくと思われ、バランスの良い形での 研究の発展を願います。

 

【ポジティブ心理学の一分野としての「フロー体験」】
宗教的な視点、そして医学的な視点から、ポジティブ心理学について考えていることをお話ししました。

色々なことを言いましたが、ポジティブ心理学には、興味深い要素が沢山含まれてもいます(「なにを今更」という声が聞こえてきそうですけれど)。

セリグマン教授は前述のTEDトークの中で、幸福な人生を送るためのキーワードとして、「ポジティブ感情、我を忘れるほどの充実感、人生の意義」をあげました。

ポジティブ感情は、快楽との関係が深いものです。そして、「我を忘れるほどの充実感」の例としてあげられているのが「フロー体験」です。

フロー体験は、ポジティブ心理学の主要なサブ領域の1つに位置づけられていますが、人間の認識についての概念であり、研究対象として比較的扱いやすいもののように感じられます。

偉そうですけれど、ちょっと予習的な情報として、「フロー体験」のTEDトークもご紹介しておきます。

 

いよいよ新年度が始まりますね。ご卒業おめでとうございます。

 

*1 ポジティブ心理学(ナカニシヤ出版)島井哲志編 p22

*2-1 宗教聖典を乱読する(朝日新聞出版)釈徹宗 p148

*3-1 ゼロからの宗教の授業(東京書籍)釈徹宗 p105

*3-2  同 p114

*4 現代アメリカ宗教地図(平凡社新書)藤原聖子 p82

*5-1 日本的霊性(岩波文庫)鈴木大拙 p17

*5-2 同 p20

*5-3 同 p86

 

 

 

 

 

 

「M君へ語る私的身体論」⑧ あの時、ごく短い時間で考えたこと(フロー体験1)

相愛大学の授業は「身体をうまく使えている状態」について考えることから始めました。それが学生諸君の希望だったので、内容的にも期待に沿うもの、初回から興味を持ちやすいものにしようと思い、「フロー体験」を取り上げることにしました。

フロー体験とは、日本語で最適経験と呼ばれたりもしています。「一つの活動に深く没入しているので、他の何ものも問題とならなくなる状態」のことを指します。*1

私がフロー体験について考えるようになったのには一つのきっかけがありました。2012年の7月に神戸女学院大学で集中講義「対人コミュニケーション」の一部を担当することになり、私はそのお話をいただいた2011年の秋に少しずつ授業の準備をすることにしました。

実際の授業を行うまではまだ時間がありましたが、当時の本業の医学研究の方はいつ何時忙しくなるのか予想がつきませんでしたので、神戸女学院での授業については、できるときにできるだけの準備を進めておく必要がありました。

その授業は、「キャリアデザインプログラム」という副専攻の枠に入っていて、将来ホテルや、エアライン、銀行などで働くことを目指している学生が、仕事で必要になるコミュニケーションについて考えることを目的としたものです。

ホテル業界の方、インターナショナルスクールの元校長先生などが授業を担当されていて、その中で私は、「医療上のコミュニケーション」についての講義を行うことになりました。

病院におけるコミュニケーションの特徴や、起こりやすい問題、エピソードなどはいくらでも話すことはできますが、ある程度学術的な裏付けの基に授業を進めたいという気持ちがありました。

医療コミュニケーションについて土曜日一日で90分×4コマの授業をするので、多面的な切り口(はっきり言うと、学生のみなさんが飽きない工夫)を考える必要がありました。

いくつか「コミュニケーション学」についての本を読んだのですが、残念ながら私が持っている医師としての経験とうまく融合させられそうな学問体系に出会うことはできませんでした。

そこで、当時私はまだ阪大にいたので、キャンパス内で、コミュニケーション学の専門家を探すことにしました。

コミュニケーション研究は、心理学の領域で主に行われているようでした。

阪大で心理学者が多く在籍しているのは人間科学部です。阪大吹田キャンパスにある人間科学部の研究棟は医学部の隣なので、非常に好都合でした。調べてみると、阪大には、コミュニケーション学について研究されている社会心理学研究室のD教授がおられました。D先生は、「対人コミュニケーションのプロセス解析」や「顔コミュニケーション」を専門にされている心理学者でした。

今思うと大変不躾なことでしたが、私は、「医療におけるコミュニケーションの授業を行うことになったので、コミュニケーション学についての基本的なことを教えてください」というメールをD先生に送りました。

数日後、D先生は丁寧なご返事をくださり、お会いいただけることになりました。

メールの記録を調べてみると、私は2011年の11月28日に研究室に伺っています。一つだけ計算違いだったのは、当時の人間科学部は改装工事中で、D先生の研究室は、一時的に阪大箕面キャンパス(旧大阪外語大)に移っていたことでした。

11月の箕面キャンパスはどういうわけか分かりませんが、ほとんど人がいなくて、とても静かでした。守衛さんに会った後はキャンパス内で誰にも合わなかったので、「本当にこの場所にD先生の研究室があるのか?」と不安になりましたが、守衛さんに教えてもらった通りの道を、菓子折りの袋を下げながら歩いて行きました。

箕面キャンパスは道路が広く、大きなグランドとテニスコートがありました。結局、守衛さんに会った後、D先生にお会いするまでは誰とも会いませんでした。医局や大学病院では、いつも人に囲まれて仕事をしていたので、このような静かなところで働ける大学教員という職種を、少し羨ましく思いました。

D先生の研究室は、建物の2階にありました。ノックしてドアを開けると、そこは驚くほど広い部屋でした。20人位だったら十分に授業ができそうな広さでした。赤茶色のリノリウムの床で、部屋の中央に一段段差があったので、そこは本当に教室だったのかもしれません。

D先生はその部屋の窓際にご自分の仕事机を置き、部屋の真ん中にミーティング用のテーブルを置いていました。

予想外の部屋の大きさに戸惑っている私を見てD先生は、

「間借り中で、こんなところに居るんです」

とおっしゃり、私を室内へ招き入れてくださいました。

D先生は、優しく丁寧な口調でお話をされる、大変紳士的な方でした。髪が黒々とされていて、エネルギッシュな印象を受けました。

早速本題に入りました。

 

・「コミュニケーション学」の学問体系というものが、どのように構築されているのかよく分からない。

・正直なところ、私には「コミュニケーション」というものを学問あるいは科学として考えるというのはどういうことなのか、分からない。

 

ということを率直に伝えました。

簡単に言うと、特定の学術領域としての主立った「知見」とか「軸」というものが私はコミュニケーション学の中に見いだすことができませんでしたし、「コミュニケーションを科学する」ということの方法(分析法、検証法)の精度をどのように担保するのかが分かりませんでした。

すると、D先生は、私の話が終わるか終わらないかというタイミングで、「コミュニケーションというのは空気みたいなものですので、それを考えるアプローチは無数にあるんです」

とおっしゃいました。

失礼な言い方になってしまいますが、私はそのD先生の反応スピードから、この先生のことが理屈を超えて好きになってしまいました。しかし、それと同時に大きな溝をはっきりと感じました。

コミュニケーション学については学会も存在しますが、そこはコミュニケーションを専門的に研究している研究者の「主戦場」というよりも、多様な専門分野を持っている研究者が、「コミュニケーション」という切り口の上で寄り集まってくる、学際的な場所の様でした。

私が神戸女学院大学に求められているのは、将来の仕事に活かすことのできるコミュニケーション関連の話であり、「コミュニケーション学」に何らかの学術的な背景を求めて余計な話をするよりも、現場の話に特化して、学生の役に立つ話を進めるべきだということが、その瞬間にわかりました。

それまでにコミュニケーション学に関するいくつかの本を読んでいたという前提があってのことなのですけれど、D先生とお話することで、「心理学的アプローチ」というものは医学・バイオ研究を含めた自然科学研究とも、人文科学とも異なっていて、どうも私にはなじめそうもない(=主戦場とすることはできない)ということがはっきりしました。

「神戸女学院の授業では、心理学とは別のアプローチを取り入れなくてはならない」ということが分かりましたので、D先生にお会いした私の目的は、面会後1分で果たされてしまいました(それはとても貴重な1分だったのですが)。

しかし、面会後1分で帰る訳にもいかず、私は困惑してしまいました。

非常に短い時間に、もやもやと多くのことを考えました。

 

私は、心理学における研究では、研究の出発点(あるいは動機づけ)と、到達点の設定の仕方が自分が考えている「科学研究」とは完全に異なっているので、その違いを前提として謙虚に教えを請わなければならないと思いました。

自分が非常に幸運な出会いの只中にあり、この貴重な機会を生かさなければならないという気持ちはありましたが、どのように言葉をつなげれば良いか分かりませんでした。そこで、苦し紛れではありましたが、

「私は、医学研究者としてバイオ研究を行っているのですけれど、同時に合気道の稽古をしています。合気道は「現代に生きる武道」と言われており、将来、医学と武道を横断的に結ぶ研究をしてみたいと思っているんです」

と言いました。

D先生にはこのようにお話しましたが、私にとっては、この「横断的研究」のアプローチ、あるいは方法自体が大問題でした。このような研究を行いたいという気持ちはありましたが、実際にはどのように進めたらよいのか分からなかったのです。

そしてこの日私は、D先生とお会いすることで、「心理学的アプローチ」が自分には馴染まないということだけがわかりました。

それまでの私は、心理学という未知の分野にある種の希望を抱いており、その学問的体系が、自分が行いたいと思っている研究を助けてくれるのではないかという浅はかな気持ちを持っていました。

それは先ほど述べた「横断的研究」のことに限らず、神戸女学院でのコミュニケーションの授業においても同じことでした。しかし、そのような私の考えは「甘え」であるということが、D先生とお話して分かったわけです。

 

社会心理学というのは、社会における人間の行動(たとえば「意思疎通」とか、拒絶を含めた「自己表現」など)を心理学的に分析し、説明する学問のようでした。正直言って、わたしにはそのやり方が、「形の無いものに対して、既存の枠組みを当てはめていく振る舞い」に思えてしまいました。失礼を顧みずにわかりやすい例えを用いるなら、それは「過剰な単純化」であると感じたわけです。

そして、その「単純化」「枠組みの当てはめ」を繰り返しているうちに、複数の枠組みに収まらない暗闇の数が、どんどん増えているような気がしました。

 

「研究を進めていくうちに新しい疑問が生まれる」というのは様々な研究において認められる、ごく普通のことです。ある意味これは、研究が着実に進んでいる証ということができるかもしれません。しかし、私にとってこのタイプの疑問(暗闇)は、「生まれるもの」というよりも、説明や解釈の脇から「こぼれ落ちていくもの」のように思えました。

私は、医療コミュニケーションの特徴や難しさを神戸女学院大学の学生に対して語りたいと思っていましたし、「医学と武道を結ぶものが何か」という研究をしたいと思っていました。しかしそれは、ある種の枠組みにそれを落とし込みたいということではなくて、もっと、生成的な言葉、あるいは、語られることでメッセージがさらに進化していくようなものを作っていきたいと思っていました。

私はそのような「無理難題」の答えを、私がまだ知らない心理学というものに、勝手に求めてしまっていました。

 

非常に短い時間でしたが、私はそのような自分の甘えた気持ちに対して強い自責の念を持ちました(少ない言葉を交わしただけで、私が「いやー、そうですか。うーん」などと言いながら、天井を見つめたり、急に床をじっと見たりしていたので、D先生は、私のことを変な男だと思われたと思います)。

私が心理学との間に感じてしまった「溝」は、私自身の思考のゆがみと勉強不足に一部由来するものであるということもまた分かっていました。

ですので、あらためてまっさらな、開き直るような気持ちで、「別世界」の研究の大家であるD先生から、吸収させてもらえるものは何でも吸収させてもらおう、と思いました。

わたしは、そのような気持ちで、D先生に

「将来、医学と武道を横断的に結ぶ研究をしてみたいと思っているんです」

と言いました。

私が話すとD先生は、「私の現在の研究のメインテーマは”Well-being”(心身ともに健康であること)の分析なんです」

というお話をされました。
D先生は多彩なテーマで社会心理学の研究を進めてこられたので、それを社会に役立つ形にまとめたいというお気持ちを持たれているようでした。遠い射程を持って長年研究を続けてこられたのだということが、分かったような気がしました。

「歳を取ってくると、自分がこれまでしてきたことを肯定的な方向にまとめていきたいと思うものなのでしょうかね」

とおっしゃっていました。

その後、いくつかの話をお聞きするなかで、D先生は「ポジティブ心理学」(ナカニシヤ出版)という本をくださいました。

私は後に、この本の第4章「フロー経験の諸側面」を読むことで、「フロー体験」について考えるきっかけを与えられました。
(続く)

 

*1「フロー体験 喜びの現象学」(世界思想社)M.チクセントミハイ p5

 

 

 

 

 

 

「M君へ語る私的身体論」③ 合気道家と愛猫家

合気道は試合形式を取らないので、通常のスポーツや競技武道では勝負関連のことに使用する脳の情報処理能力を、勝負以外のことに回すことができます。人間が意識の上で情報を処理できる能力には限界があるということは科学的に説明がなされていて、中枢神経系が情報を処理できる能力は、最大1秒間に126ビットだそうです。

 そして、他者が何を話しているか理解するには、毎秒40ビットの情報を処理しなければならない。このことは、「意識上の情報処理には明らかな限界がある」ということを示しています。

勝負の結果や、勝負にまつわる駆け引きについて考える必要が無い合気道は、その分、身体運用と身体を介したコミュニケーションに集中できるという特長をもっているわけです。

まあ、対立的な構図というのは必ずしもはっきりとした「勝負」「ゲーム」という形をとらないこともままあるわけですが。
何を言いたいかというと、合気道が試合という形式をとらないとしても、それを対立的な構図で行うということは、ありがちだということです。

しかし、ここではそのような話をしたいわけではありません。やはり合気道の大きな特徴は試合形式をとらないことであり、ここでは、そこから得られるものという話を進めたいと思います。

 合気道の稽古中、稽古相手から受け取る情報入力のほとんどは非言語的なものです。そして、それが個人の中で部分的に言語に変換されます。例えば、合気道の身体接触を通じて、「この人、真面目な人だなあ」とか、「いま、疲れてるんだな」とか「見栄っりだな」とか、「お母さんみたいな人だなあ(男なのに)」とか、このような形で非言語的な情報が言葉に変わっていく。

一方、それがあまり上手くいかない時には、言葉になりきらない体感が「宿題」あるいは、「無形文化財」みたいな感じで体に残る。

 私は、合気道の稽古は、決まった体感や状態を得るためにするものではないと思っています。特定の体感を求めて動くというのは執着的な稽古になりやすく、武道ではそのような状態をあまり良しとしないようです。

 それでは、「何か」を求めるわけではない形で合気道の稽古をすると、結果として何が起こるかというと、身の回りの状態の「認識システム」が活性化する、敏感になる、冴える、ということが起こる。

保阪和志が猫と関わることでしか得ることのできない経験や、認識を持つのと同じように、私は合気道の稽古をすることで、自分の周りの世界の認識システムが変化するのを感じているのです。

 そして、そのような特有の感覚を持つ状況は、少しずつですが稽古中だけでは留まらなくなってきていて、稽古以外の時間でも、同門の仲間との人間関係がそのような認識システムのもとで築かれるようになってくる。

そしてそのうちに、その固有の認識システムは、合気道以外の場所でも使われるようになってくる。きっと、愛猫家もそうなんでしょう。最初は「猫を愛する」という振る舞いは、その人と猫の間でだけの関係に限定されていたのが、次第に愛猫家として社会全体を認識するようになってくる。このようなタイプの人間はもしかすると珍しいのかもしれませんが、少なくともそのような形で世の中を見ることは、その人の中に固有の時間と空間が立ち上がっていて、それは小説的なものにつながっている。

 そして、保阪和志はそのような場所を生きている。同じように私は、最初は合気道をしているときだけに限定されていた自分の認識システムの変化が、次第に合気道以外の状況にも広がってきているのを感じている。

話が戻りますが、合気道の道場の人間関係では、身体接触を介した他者理解というのが、社会一般での人間関係の場合よりも明らかに重視されていると思います。

武道をするためにみんな集まっているわけなので当たり前といえば当たり前なのですが、前述のとおり、合気道は、勝負という形式をとらない分だけ身体感覚に敏感になりますから、身体接触を重視する傾向が強くなります。

大学生であるとか、会社員であるとか、主婦であるというような社会的肩書きも、もちろん人間関係を構築するうえでの情報としてインプットしているんですけれど、それと同じかそれ以上に、「この人は、とても受容的な合気道をする人だ」とか「この人は、わりとマッチョな技を好む人だ」とか「あわてんぼうだ」とか「なんとなくエロい」とか、「自分にしか興味が無い人だ」とか、そのようなことを身体情報としてインプットしていて、それをもとにその人と付き合ったりする。

たとえば、同じ道場に通っているハラダさんは新幹線を作る会社に勤めている女性で、現在合気道参段。物腰の柔らかい、とても礼儀正しい人ですが、いざ合気道の時に手を取り合ってみると、自分の持つ「間」(タイミングに近いものです)や流儀というものを非常に大事にしているということを強く感じる。

ハラダさんは、自分の持つ筋目を決して曲げたくないというような意志の強さがあり、「もたいまさこ的存在感」をこちらに抱かせる。こちらがタイミング悪くふざけると、いざと言うときには眉をひそめて怒られるような気がする。

 一方、イノウエさんは私と一緒に道場の運営に携わってくださっていますが、こちらも合気道参段。入門されたのは不惑を超えてからですが、とても情熱的な合気道をされる。身体は大きくないのですが、自分の身体からエネルギーを発散させることをとても大切にされている。

これまでは、エネルギーの発散の仕方を上手く見つけることができずに苦心されることも多かったのではないかと想像するのですが、ここ最近、あらたな境地を得られているように思う。

イノウエさんに対して私は、「遅れてやってきた本物」というような印象を抱いており、彼女のことを「凱風館道場のシンディー・ローパー」と密かに名付けている。

イノウエさんはいよいよ、『ハイスクールはダンステリア』から、『トゥルーカラーズ』状態に移行している(1983年に発売された『ハイスクールはダンステリア』は、現在『ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン, ”Girls Just Want to Have Fun”』という、原題のカタカナ表記に変わっている)。

 道場の書生をしているユアサくんは、20代後半の男性で、もともとダンスをしていたこともあり、同場内で最も運動神経が良い人の一人である。彼は「猫ダンサー」と自称していて、自らのメールアドレスなどにその名前を使っている。合気道の技の受けをするときの受容性がとても高くて、まさに猫のように身をこなす。

彼が私の腕を取り、彼に技をかけている時には、コラット種のような短毛の猫の背中を撫でているような恍惚感を感じることがある。ユアサくんの受けには、「光」と「温かみ」をはっきりと感じる。もともと、口数が少なく、けっして社交性が高い人間では無かったが、合気道の道場で書生の仕事を続けるうちに、道場での自分なりの棲み方を見つけたように見える。ユアサくんは、こちらから近づかなくとも窓さえ開けていれば、彼にとって必要な時に、こちらに近づいてきてくれる。猫である。

私はこのように、自分が身体接触から得た情報を自分の中で言語に置き換えるようなことをしています。そしておそらく、合気道をしている人は、それぞれ少しずつやり方が異なるとしても、同じようなことをしているのではないでしょうか。M君はどうでしょうか。

 興味深いのは、合気道をする人は身体接触という非言語的コミュニケーションに基づく情報のみを重視して、会話などの言語的なコミュニケーションを軽視するかというと、そんなこともないというところです。

 合気道をする人は、自分が稽古相手と重ねた「非言語的コミュニケーションにおける感覚」と、「言語的コミュニケーションで得た感覚」が同じものなのか、つい確認したくなってしまう。

だから稽古の後も、当たり障りの無い会話をすることで、言葉によって「非言語的コミュニケーションで得た体感」の確認作業を行うことになる。私は、合気道の道場での人間関係はこのような形でつくられているように思います。

 

「M君へ語る私的身体論」② 合気道・保阪和志・猫

M君と私は、大体週に一度くらい道場で会っているでしょうか。よく話もしますが、あらためて考えてみると、そのほとんどは、「JR神戸線、今日も遅れてるなあ」とか、「和歌山で海水浴するんだって」とか、そのような時候の挨拶的な事ばかりです。

私はあまり、通常の稽古の後で居残り稽古をしたり、合気道の技について意見交換をしたりという習慣を持っていないので、M君以外の合気道の知り合いとも、技の話をあまりしません。ときどき稽古の後にビールを飲みに行って、「自分の中では、合気道をすることと、仕舞を舞うことの間に境界をつくっていない」とか、そういう話をすることはあるんですけれど、道場の中でも外でも、合気道の一つの技についてじっくり意見を交わすというような習慣がないんです。

「稽古で得た技の体感」というのは言葉にできないものが非常に多いですよね。そして、その感覚には、心の持ちようから全身の使い方まで、実に様々な要素が絡み合っています。それらの感覚の中から一部のものだけを抽出して、たとえば、「ある技での手の取り方」みたいなものを、会話が成立するレベルまで単純化するという作業に戸惑いを感じてしまうんです。そういう話の仕方は、身体を使う「状況」が限定されすぎているような気がするんです。

もちろん、普段の合気道の稽古でも、ある種の状況(太刀で相手を打つとか、こぶしを突きつけるとか)は設定するわけですけれど、それはもっと大きな文脈というか、流れの中にあるものとして私はとらえています。

一緒に合気道をする人間との間に、固有の時間を立ち上げることが大切だと思っているので、無時間的に、一つの「点」において技が上手くいくか行かないかと言うような話をするのは、あまり気が進まないんです。

これはあくまで私の考えであって、このような考えを持つことは、もしかしたらあまり良くないことなのかもしれません。ただ、私はどうしてもそのような形で合気道の技のことを直接的に話すことが好きじゃないんです。なので、それを無理に行うと他人に迷惑をかけてしまうかもしれないので、あまりしないようにしています。*

そして、私がここでM君に対して語りかけていることは、まさに自分がM君と合気道をするのと同じこと、私と君の間にここ以外では立ち上がらない「時間」を作りだすことだと思っています。私が、合気道をしているときにのみできること(ある種のコミュニケーションといっていいでしょう)を、ここでもできるのじゃないかと考えています。

そういう意味では、ここでM君に対して語ることは、その内容も勿論大切だと思っているのですけれど、M君に対して語りかけるというその「回路のあり方」に対して、私は大きな関心を抱いています。

 繰り返しになりますが、私が道場の仲間と稽古後に話すことは、「最近忙しいですか」とか「中間テストもう終わったの」とか、「出産予定日はいつだっけ?」とか、そのようなことばかりで、それ以上踏み込んだ話をほとんどしません。

道場における私の同門のみなさんとのお付き合いは、社交辞令的な会話をちょっとして、稽古をして、そのあと縁が合った人とは一緒にビールを飲みにいって、さらに、たわい無い会話を少し続けて。そんな感じです。

 しかし、だからと言って、みなさんと仲が良くないとか、意識的に距離をとっているとかそのようなつもりもありません。もちろん、自分よりも合気道の経験が少ない人から技についての質問をされたら、丁寧にお話しするようにしています。そのときは、基本技の手順みたいなことを言います。

もう少し合気道の話をさせてください。「私が合気道とどのように関わっているか。合気道のことをどのように感じているか」ということです。拙いものですが、これは私がどんな人間であるかということを、普段は社交辞令的な会話しか交わしていないM君に対して伝えることにもなると思います。

 保阪和志という小説家がいます。小説と同時に、小説論もいくつか書いています。保阪和志は、とても猫が好きなようでして、猫がいる場所で数人の仲間が緩やかな関係をつくって生活する小説を書いています。また、保阪さんは、猫の死に対して非常に心を痛めたことがあり、「猫の死は、関係の近い人間の欠落よりも辛い」というようなことを言ったりしています。

保阪さんは、猫と共に過ごしている人間の「認識のあり方」を描いています。あるいは、猫というものが存在したり、消えたりすることによって固有の時間が立ち上がること(小説的時間が立ち上がること)を伝えているように私には思えます。ただこれは、「猫とはなにか」を書くことではないんです。

「猫」なるものがあると、自分の認識が変化する。猫によって結びつけられる人間同士の関わりが変化する。猫とかかわることで、それ以外の状況では出てこない、固有のものがそこに生まれる。そこがとても大切だと私は思っています。

 それと同じように、私は、「合気道とはこういうものである」ということを言うつもりはなくて、合気道というものに関わる人間や、人間同士の関係が変化する。ということを言いたいのです。

残念ながら私は、「保阪和志が猫を愛するように、私は合気道を愛している」と言うことができません。しかし、それでも合気道を続けていることで、自分の生き方がかなり合気道に寄り添ってきたような気がしています。

 自分でそうしようと思ってそうなったと言うよりも、いつの間にかそのような生き方になっていたというのが正直なところです。「保阪和志が猫を愛するように私は合気道を愛している」と言えないことは少し寂しい気持ちもありますが、「私は他人に対して胸を張って、「合気道を愛している」と言えるような気持ちを持てていない」と素直に感じ、言葉にできるようになったこともまた、合気道のおかげだと思っています。

私は、2012年の秋に職を変えました。それまでは大学の医学部で医者および医学研究者をしていたのですが、今は神戸の女子大(神戸松蔭女子学院大学)で働いています。これを書いている時点で、職場が変わってから1年と3ヶ月が経ちました。管理栄養士を目指す学生に医学を教えるのが主な仕事ですが、大学に合気道部を作って、新しい職場でも合気道の稽古を始めました。

職場が変わると、自分のことを人に説明する機会が増えます。私の場合は、「佐藤先生は、合気道をしているんですよね」と聞かれることがよくあります。そして、そんな時にはだいたい決まって、「合気道って、どのようなものですか?」と引き続き尋ねられます。

 そのような状況は、大抵の場合エレベーターの中とか、講義のプリントを印刷している間とか、あまり説明する時間がないことが多いです。そのような時に私は、「合気道は試合をしない武道なんです」とか、「身体の感覚を研ぎ澄ませることを目的にしていて、芸術に近いものだと思っています」などと言っています。

 しかし、このような説明で納得する人はほとんどいなくて、私がそのように言うと、ほとんどの人は不思議そうな顔で、「はあ」とか「なるほど」などと呟いて、その場所から去っていきます。

 その場所に取り残された私は毎回、「また、合気道のことを上手く説明出来なかった」と小さく落ち込むのですが、話し相手がその場を立ち去らずに、私の次の言葉を待ち続けていることも時々あって、それはそれで非常に困ります。

 そういう時は仕方がないので、「合気道は、女子学生が行う課外活動として、非常に良いものだと思ってるんです」などと言葉をつないで、今度は私の方からその場を離れたりします(そして、また落ち込みます)。

 もしかしたら、M君も同じような経験を持っているかもしれませんが、合気道をしない人に対して合気道のことを簡潔に説明するのは非常に難しいです。そして、転職をきっかけにそのような苦い経験を繰り返した私が感じているのは、合気道をしたことのない人に対して合気道のことを簡潔に説明する場合はやはり、「合気道は試合をしない武道である」ということを入口にするのがいいのではないかということです。

*元々このような人間だった私が、後から「合気道当事者研究」という、合気道について語る試みをすることになる訳なんですが。このことについてはいずれお話します。

「M君へ語る私的身体論」①

【はじめに】
ここでは、相愛大学で行った授業内容をベースに文章化したものを公開します。大学生のMくんに対してお話する形になっています。

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相愛大学で2013年度後期に行った「身体論」は、私と、臨済宗の僧侶である佐々木奘堂先生の二人によるリレー授業でした。M君は、私が担当した8回のうち、後半4回を聴講してくれました。

授業は、毎週金曜日の4時限目に設定されていました。授業が終わると、私はM君を車に乗せて、大阪市住之江区にある相愛大学の南港キャンパスから、阪神高速湾岸線を通って神戸に帰りました。合気道の夜稽古に参加するM君を神戸市東灘区の凱風館道場まで送り、私はその後に灘区内の幼稚園まで長女を迎えに行くというのが、ほぼ毎週のパターンでした。

 授業を終えた後の車内でM君から聞かせてもらう感想を、私は毎週楽しみにしていました。相愛大学の履修者は大半が4年生であり、他学ではありますが同じく大学4年生のM君から感想を聞けるのは、授業の進行を工夫する上で大いに参考になりました。

M君は、最終回を終えた後の車内で「前半の4回には出席できなかったのだけれど、全体としてどのような授業だったのか知りたい」と、言いました。そこで、この場所で私が行った授業全体についてお話ししたいと思います。

私の今回の授業は、「現代社会を生きるための身体の使い方」をテーマにしました。かなり大雑把なテーマですよね。要するに、何でも話せる場所にしようと思い、このようなテーマにしたわけです。私は、内科の医師、そして大学教員という仕事をしています。また、M君も会員となっている武道の道場で、合気道の稽古をするとともに、道場運営(コミュニティづくり)にも、少し関わっています。授業ではこれらの経験をもとに、「(心を含めた)身体をうまく使えている状態」と、「身体をうまく使えない状態」を、対比的に考えてみるということを行いました。単純にいうと、医師としての立場からは、「身体をうまく使えない状態」について考え、武道の側からは、「身体をうまく使えている状態」ということについて考えてみました。

このように、授業の「入り口」については、割と分かりやすい枠組みを設定したのですが、考えを進めていくうちに、人間が「身体をうまく使えている状態」と、「うまく使えていない状態」の特徴は、とても似ているということに気がつきました。学生諸君も、同じように感じたようでした。

ある女子学生は、「人間が、気持ち良く生きている状態と、生きづらさを感じている状態というのは、表裏一体なんだなあ」と、言っていました。私自身、授業を進めていくうちに、「身体をうまく使えている=気持ちが良い」という状態と、「身体をうまく使えない=気持ちが悪い、生きづらい」という状態は、どのように違うのか、その境界がだんだん分からなくなってきました。今ではそのことについてある程度の答えは出ていますが、それは決して完全なものではありません。また、私の考えもどんどん変わっていくもののように思います。

結局のところ、私の授業は、「言いっ放し」になっています。先に謝っておきます。ひょっとすると、M君もこの僕からの一連の手紙を読んだら、同じような混乱の中に入ってしまうかもしれません。

 この授業は、「このように身体を使ったら、あなたの人生はうまく行く」というような、自己啓発本的なものではありません。残念ながら、私にはそのような話をするだけの経験も実績も知識も厚顔もありません。授業は、私が毎回一つのトピックについて語り(問題提起)、その内容に関して受講者が授業の最後の時間に小レポートを作成し、提出する。そして、次週にその内容を私が受講者に対してフィードバックする、という形で進めました。

 トピックは、「最適経験(フロー体験)」「依存症」「アダルトチルドレン」「精神疾患の回復とコミュニティ」「武道」「身体とコミュニケーション(乙武洋匡と「メッセージ」の関係)」「自殺」などを選びました。これらのことを選んだのには、いくつかの理由があります。詳しいことは、それぞれのテーマについてお話するときに言及しますが、大きな前提として二つのことを意識しました。

 一つは、「明確な答えがある話を選ばない」ということです。私はこの授業を通して学生諸君に、身近だけれど、これまであまり考えたことのなかったことを考えてもらいたい、と思っていました。そもそも「現代社会を生きるための身体の使い方」に正解なんてありません。しかし、「これまで考えたことがなかったことについて考える」ということを繰り返していくうちに、自分の思考のクセであったり、意識していなかったけれど自分が大切にしていたことなどに気がつくことができます。このような経験を通して、(脳を含めた)自分の身体についてより詳しく知ってもらいたいと考えました。このことは、学生諸君が現代社会を生きる上で不可欠な情報となるはずです。

 アルコール依存症(AA)の治療では、「底つき」という概念が重要と言われています。アルコール依存症(AA)は、「否認の病気」として説明されることがあります。治療開始前のAA患者は自分がアルコール摂取を自らコントロールできなくなっていること、アルコールが原因で問題行動を起こしていることを決して認めようとしません。そして、様々な問題(幻覚や妄想を含めた身体の問題、人間関係や金銭のトラブルなど)によって完全に追い詰められて、患者さんが自ら「酒をやめるか、死ぬしかない」とリアルに感じること。そのことを「底つき」というのです。

他の誰でもない自分自身が、「酒を断つ」という必要性を実感しなければ、AAの治療は始まらないのです。言うのは簡単ですが、これまで酒に頼って生きてきた人間が酒害を認め、酒を断ち、新たな人生を歩き始めるというのは本当に大変なことです。

また、こちらはすべてのケースを疾患と呼べるわけではないですが、親との関係に起因する生きづらさを抱えている「アダルトチルドレン(AC)」からの回復過程でも、同じことが言えます。ACからの回復には、「これまで自分がもっとも信頼を寄せてきた親との関係にこそ、自分の生きづらさの原因がある」と気がつくことが大切だと言われています。こちらも言うのは簡単ですが、実践するのはかなり難しいことです。

M君がサファリパークの中を車で走っているとします。その車内で火事が起こったら、君はどうするでしょうか?

恐ろしいけれど、車外に逃げ出すしかありませんよね。AAの人が酒を断つことや、ACの人が親との関係を変えるということは、このくらい大変なことだと私は思っています。そしてこのようなことができる人に対して、私は敬意を持ちます。自分が置かれている状況を客観性を持って理解し、必要な行動をとることのできる人間は知性的な存在だと私は思うのです。

 もしかするとM君は、これらを極端な例だと感じるかもしれません。しかし、特定の病気を持っていない人間が社会を生きていくというのも、結局同じことのような気がします。

 人間が生きていると、「サファリパークで発生した車内の火事」に遭遇することが必ずあります(私にも覚えがあります)。その時に、自分が乗っている車(例: 酒や親や友人など)が何なのかに気づくこと、車内の火事(例:酒や人間関係に起因する問題行動)の存在に気づくこと、そして、「自分にはサファリパークの外に出る準備ができているかどうか」を感じること、がとても大切です。

まだ何が起こるか分からない、サファリパークでの出来事に対して自分の準備ができているかどうかを、論理的に判断することはできません。自分が車外にでて生きていけるのかどうかという判断は、感覚的に(あるいは、身体的にと言ってもいいでしょう)予知するしかありません。

「自分が置かれた状況を変えるのは不安だったけれど、車外に出るしか生きる道はないと思った」ということもあるかもしれません。私はそれが大切だと思うんです。その状態こそが、「車外に出る準備かできている」ということではないでしょうか。

 結局のところ、体系的に学べるものでもないし、準備ができたかどうか、外側からはわかるものでもありません。「学習成果」とか「到達目標に対する達成度」なんていうものをはっきりと査定できるようなものではありません。このようなことを言っている私自身もまた、いつまたサファリパーク問題に苛まれるかわかりませんし、すでに何らかの問題の中にいるのかもしれません。

 いつそのような状況が出てくるかは分かりませんが、この「身体論」の授業が学生諸君にとって「車外に出る準備」のささやかな助けになってくれれば良いなと私は思っていました。身近だけれど、これまで考えたことのなかったことを考えるというのは、この準備(=自分を知るということ)につながるものです。

授業で扱うトピックを選ぶ基準のもう一つは、「大学生が単に情報として知っておくだけでもメリットがあるものを選ぶ」、ということでした。一人一人の学生において、授業で扱う問題に対する興味の深さは異なるはずです。これは、この身体論の授業を二年間やってみて、とても強く感じています。

たとえば、フロー体験についての話は、多くの学生が強い関心を持ちます。それに対して、依存症の話は、学生の間で興味の持ち方に大きな開きがでます。ある学生にとって、これは非常に切実なことですが、ある人にとっては、まったくフックされないことのようでした。

 このように、トピックによって学生の反応は随分異なるのですが、いま、そのことについて深く考えることに気が進まなかったとしても、情報として身につけておけば後から役に立つ可能性がある、というものを題材として選びました。

適切な(あるいは、「ランダムな」と言い換えられるかもしれません)情報収集は、時に人を救うものだと私は思っています。ですので、M君も興味の無いことは無理に考えたりしなくていいですので、「こんなこともあるのか」と気軽な気持ちで読んでもらえたらと思います。

 それぞれのトピックについて話をする前に、私がどのような立場の人間として、相愛大学の学生諸君に授業を開始したか、という話からしたいと思います。正直なことを言いますとこの授業では、「どのような立場の人間として私は学生諸君に語りかけるか」ということを考えるのに一番苦心しました。そのあたりのことから始めます。

ここでは、私がこれまでに経験したことを通じて話すということが多く出てくるような予感がしています。実際の授業においても、しばしばそのようなスタイルをとりました。これはいわば、「私小説的な身体論」になるのではないかと思っています。身体について何かを君に語ろうとするとき、私は自分の身体を通して語るという事以上の方法を思いつくことができません。読み苦しいところもあるかもしれませんが、同門のよしみということでどうかお許し下さい。

3月でいよいよ卒業ですね。気に入ってもらえるかどうか甚だ心許ないですが、私からの卒業祝いだと思って、この身体論受け取ってもらえれば幸いです。