朝一で散髪に行く。
8時30分に行ったのだが、すでに一人順番を待っている人がいた。スマートフォンで日記を書いているうちに自分の順番が来た。
ワードプレスのアプリをスマートフォンに入れたので、日記などをどこでも書けるようになり大変便利になった。
床屋に来るのは年末以来3ヶ月ぶり。前回と同じお兄さんが散髪してくれた。4歳の男の子のお父さんであり、話を振られるままに子育ての話をする。
家に帰って朝食を食べてから、確定申告の書類を完成させた。ついでに大学へ提出する社会保険関係の書類も書いた。
こういう面倒くさいものは、勢いがついたときに次々とこなして置くに限る。
昼からは、池田市の如来寺で開催された甲南麻雀連盟第3回如来寺杯に参加させていただいた。
毎年この如来寺杯を通して、人を歓待することの大切さ、心構えを、ご住職の釈徹宗先生から教えていただいている気持ちになる。
連盟のみなさんも一緒に来させていただいた子供達も、仏様と釈先生、ご家族の皆様、お手伝い下さった皆様の温かい愛に包まれて、終始にこやかな顔をしていた。
釈先生、皆様、今年もどうもありがとうございました。
成績は、唯一2連続トップを取った内田総長の二連覇だった。
私は2位4位といまいち。
今回は、山本画伯、次郎先生、川上牧師という重鎮3人が欠席だったが、あらたに「育成部」の方達が来てくれた。
今回は麻雀の調子が余り良くなかったのだが、調子が良く無いなりに打ちながら色々と思うことがあった。
それは、もし麻雀のゲームに勝とうとするならば、「リアリスト」として打つ必要があるということである。
麻雀には、配牌やツモといった不確定要素が多分にあるので、その不確定要素に依存するというか、未来に対して希望的観測のもとに行動を起こしてしまうということがある。
しかし、不確定要素に依存することではゲームには勝てない。
4人の「夢」はしばしば卓上でぶつかる(例えば、対面のリーチとか)。そのときに、いかにして自分の夢へのこだわりを棄てることができるか。
私は他者のリーチといったある種の苦境において、すべて逃げるべきだと言いたいわけでは無い。
リアリストとして、進むか戻るかを、(カンを含めた)自分が持つすべての情報を集めて決断する必要があるのである。
リアリストとは、夢を持たない人間のことを指すのではなく、自分の夢を、判断の一要素にまでパーツ化できる人間のことを言うのだろう。そして、パーツ化された夢は、時と場合によってはあっさりと葬られる。
所詮、夢は夢であり、それは、「実際にその場所で起こっていること」とは別の次元で存在するものなのである。夢を前提として作られた判断は、個人の中での「夢物語」にすぎない。
「夢は必ず叶う」
と言う言葉を、私はあえて否定しない。
では、夢を変えるためには一体どうすれば良いのだろうか。
それは、夢の方を変えれば良いのではないか。
夢を叶えるためには、人間の変化とともに、絶えず夢の「マイナーチェンジ」を繰り返す必要がある。
「短い夢は、棄てるに限る。大きい夢は、こちょこちょ変わる。」
ということを、麻雀を通して愚考した次第である。