【ポジティブ心理学とプロテスタンティズム】
ポジティブ心理学(Positive Psychology)は、ペンシルバニア大学のマーティン・セリグマン教授が1998年に提唱した新しい研究分野です。
アメリカ心理学会(APA)のデータベース(PsycINFO)による “Positive Psychology”の 定義づけを見ると、
「精神病理や精神機能障害に焦点を当てるのではなく、楽観主義や、人間におけるポジティブな機能を強調する心理学的アプローチ」”Approach to psychology that emphasizes optimism and positive human functioning instead of focusing on psychopathology and dysfunction.”
とされています。
APA会長を務めていたセリグマン教授は、従来の心理学が疾患を扱うことに偏りすぎていると感じ、人間の長所について科学的に研究することの必要性を訴えました。
ポジティブ心理学は、人間の長所や強みとはどのようなものか、そして、どのようなときに人間は幸福を感じられるのかということを研究しています。この分野の研究者は、新規治療薬開発の治験で行われるような、ランダム化比較試験(対象者を無作為に割り振って、介入行為の影響を検討する)を積極的に取り入れて、「幸福をつかむ」ことの手がかりを解明することを目指しています。
こちらに、1998年のアメリカ心理学会で、セリグマン教授が行った会長講演「21世紀の心理学の2つの課題」の一部を抜粋します。教授はこの講演の中で、20世紀後半における心理学が取り組むべき課題の一つ目を、民族問題への対応であるとしており(1998年当時、内戦が激化していたコソヴォ紛争を背景とした発言です)、もう一つを「ポジティブ心理学」だとしています。
対応を求められている2番目の領域は、私が「ポジティブ心理学」と呼んでいるもので、ひとりひとりの最も建設的な特質である、楽観性、勇気、職業倫理、未来指向性、対人スキル、喜びと洞察の能力、社会的責任などがどういうものであるかを理解し育成することを重視する、新しい方向を目指す科学である。私の見解は、第2次世界大戦が終わってからの心理学は(中略)、精神的な疾患を治療するという方向に向かいすぎているというものである。 *1-2
セリグマン教授のTEDトークがこちらにあります。
こちらには、教授がどのような経緯でポジティブ心理学の研究を行うことになったのか、そして、ポジティブ心理学では「幸せな人生」の要素としてどのようなものをあげているのか(ポジティブ感情・充実感・意義)について説明をしています。
(“Martin Seligman: The new era of positive psychology” http://www.ted.com/talks/martin_seligman_on_the_state_of_psychology )
心理学者が、病的な状態だけではなく、良好な状態についての研究を行う必要性を感じたというのは、理屈としては理解できます。
ただ、この会長講演とその後のポジティブ心理学研究が進められた方向性のベースにはアメリカ的価値観、プロテスタンティズムに基づくアメリカの市民宗教(肌感覚のように気化した宗教性)的行動規範が存在するということを指摘しておかなければなりません。
私は宗教の専門家ではありませんから、宗教に関する基礎事項は、比較宗教学者の釈徹宗先生の力をお借りして、お話したいと思います。
16世紀の宗教改革に端を発した思想であるプロテスタンティズムは、ローマ・カトリック教会の教理と伝承に反対し、聖書を重んじるという特徴があります。プロテスタンティズムは個人の信仰を重視することから、個人主義やリベラリズムへとつながります。(参考 *2-1)
釈先生は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を解説する形で、プロテスタンティズムについて以下のような説明をしています。*3-1
あらゆる誘惑に打ち勝ち、天職である職業労働に励む。それは自己の信仰表現なのです。そのために発達したのが合理主義です。プロテスタンティズムに合理主義的傾向が強いことはしばしば指摘されています。
誘惑に負けない世俗内禁欲、勤勉で誠実な労働者。そして資本を浪費することなく、次なる展開へとつぎ込み、資本を増やす。増加、発展、成長が自己目的となるのです。ウェーバーは、このような自己目的化した労働に勤め励むメンタリティは、人間が生まれつきもっているものではなく、信仰や理念がなければ成り立たない、と述べています。
ポジティブ心理学は、PsycINFOによって「楽観主義や、人間におけるポジティブな機能を強調する 心理学的アプローチ」と定義づけられていました。
プロテスタントは、「増加、発展、成長」と言った目的を達成することを求めています。そのような背景において、ポジティブ心理学は、プロテスタントの目的にかなったものとして誕生しています。
多様な教派を含んでいるプロテスタンティズムと楽観主義(Optimism)を安易に結びつけることには慎重でありたいと思うのですけれど、私にはこの2つの考え方の間にも関連があるように感じられます。
マックス・ウェーバーは、プロテスタントのカルヴァン派が持つ予定説(人間が神によって救われるかどうかはあらかじめ決まっている、という考え方)が、資本主義を発展させたと考えました。
どうしてこのような考え方が資本主義を発展させたかというと、カルヴィニストたちが「神に救われるようにあらかじめ定められた人間は、禁欲的に天職(ベルーフ)に励み、成功する人間のはずである」というふうに考えるからです。
予定説では、自らが神の救済を得られる人間なのかどうかは分からないとされています。
カルヴィニストはそのときに、「どっちみち神に救われるかどうかは決まっているのだから、まじめに働いても働かなくても一緒だ」と考えるのではなく、
「私は神に救われるはずの人間である。神に救われる人間とは、仕事に励み、成功するような人間だろう。だから私は社会的成功によって、自分が救われる人間であることを証明するのだ」と考えるのです。
神によってあらかじめ決定されてはいるが人間には不可知のことについて、最高の結末を信じて 努力するというのは、ひとつの楽観主義と言えるのではないでしょうか。
今気がついたんですが、「天は自ら助くるものを助く」(Heaven helps those who help themselves)というのはカルヴィニズムと関わりの深い言葉ですね。
私はこれまで、この言葉を単に「自分で自分を救うべく努力する人は、その行為の報酬として神の救済を得ることができる」という意味だと思っていました。でも違うんですね。これは、予定説を前提にした言葉のようです。
「自ら助くるもの」のことを、そのあり方自体が「神の救済を得る人間の証明」であるとカルヴィニストは考えます。
このちょっと不気味なくらいの思い込みの強さは、東洋人には簡単に太刀打ちできない行動力につながるように想像します。
「私はこのような人間になりたい」という希望よりも、「私は神の救いを受ける人間である。そして私はそのことを証明する」という意思の方が、物事を成し遂げる力は強いのではないでしょうか。
セリグマン教授は、ポジティブ心理学と特定の宗教の関係については言及していません。しかしこの場合のように、キリスト教(特にプロテスタント)的な価値観が抽象的に表現されるのがアメリカの「市民宗教」の特徴だと言えます。*4
アメリカ心理学会は、「科学と宗教の融合」を目指しているテンプルトン財団からの支援をうけて、「ポジティブ心理学賞」 (The templeton Positive Psychology Prize)を表彰しています。このことからも、ポジティブ心理学と宗教の関係を窺うことができます。
テンプルトン財団は他に、ポジティブ心理学の研究者を支援するために、セリグマン教授の名前を冠した”Martin E.P. Seligman Award”も設置しています。
さきほど引用したセリグマン教授の会長講演の中では、「勇気」「未来指向性」「対人スキル」「社会的責任」といったものが、「建設的な特質」(=価値あるもの)としてあげられています。また、前述のTEDトークの中でセリグマン教授は「精神療法によって、病んだ人をゼロに戻すことはできる。しかし、それでは空っぽのままである」
ということを言っています。
セリグマン教授は「人間は空っぽのままではだめで、前進・成長していくことに人生の価値がある」という考えを持っており、このことがポジティブ心理学の重要性を主張することの前提として存在しているようです。
【プロテスタンティズムと日本的霊性】
「建設的な特質」に大きな価値を見いだす思想というのは、日本においても、ビジネスの世界や学校教育の現場でもなじみ深いものと言えます。たとえば科学研究は、フロンティア精神に基づいて発展してきたという側面がありますから、(キリスト教徒が大多数とは言えない)日本においても、分野によっては「未来指向性」がはっきりとした価値になっていると言えるでしょう。
ちなみに、日本の研究者や文部科学省は、この「フロンティア」という言葉が大好きです。「大規模学術フロンティア促進事業」(文部科学省)、「免疫学フロンティア研究センター」(大阪大学)、「ゲーム理論のフロンティア」(大型科学研究費補助金の研究課題名の一つ)といったようにこの言葉が使われています。
何となく未来に向かって突き進む積極性や力強さが感じられる横文字ですよね。この言葉が含んでいるそのような雰囲気が好まれているんだと思います。
このように、日本の中でも「建設的な特質」を人生における高い価値と考えることは生活の中にかなり入り込んでいます(もちろん私の中にもあります)。
また、釈先生は、日本文化の中にあるプロテスタンティズム的なものの例として「少年マンガ」をあげています。週刊少年ジャンプが「努力・友情・勝利」を編集方針として掲げてきたことは有名ですが、釈先生は少年マンガ誌に溢れているプロテスタンティズムについて『スラムダンク』を例にあげて説明されています(『スラムダンク』でわかるプロテスタントの世界)。*3-2
釈先生は、少年マンガには、良い意味での「煽り型プロテスタンティズム」があるということを指摘しています。
もちろんこのことは、多くの少年・少女の「健全な成長」に寄与してきたわけなのですけれど、私は、どうもこのような考え方が、日本人の身体に染みついている仏教的な思想との間に、ある種の「ぶつかりあい」「分裂」をもたらしているような気がしています。
たとえば、
一般社団法人日本ポジティブ心理学協会という団体があり、この団体のウェブサイトでは、ポジティブ心理学の事が紹介されています。
(「ポジティブ心理学とは?」http://www.jppanetwork.org/positivepsychology/aboutpp1.html)
セリグマン教授の紹介に始まり、それに引き続いて、ポジティブ心理学の社会における活用例として、マイクロソフトやグーグルなどの大手企業でのポジティブ心理学の導入例、陸軍兵士の教育プログラムへの応用などがあげられています。
また、イギリスやオーストラリアでは小学校からの学校教育において「ポジティブ教育(ウェルビーイング教育)」が行われていること、中国でもポジティブ教育導入を検討する流れがあるということが紹介されています。
M君は、もしこの「ポジティブ教育(「建設的な特質」を伸ばすような教育)」というものが、日本の小中学校の教育現場に義務的に導入されるとなったらどのように感じるでしょうか?
私は、個人的な性格傾向として「建設的な特質」を持つ人や、その価値を重視する人を否定する気持ちはありませんが、このような思想を学校教育の現場に持ち込むことには、違和感を持ちます。
そしてこの違和感は、私の中での二つの思想のぶつかり合いから来ているものです。
私は先ほど、「日本人の身体に染みついている仏教的な思想と、プロテスタンティズムが日本人の身体の中でぶつかりあっているのではないか」ということを言いました。
簡単に「日本人の身体に染みついている仏教的な思想」と言ってしまったのですが、これは、言い換えると「日本版の市民宗教」に近いものだと思っています。
そしてこの「日本版の市民宗教」がどのようなものかというと、鈴木大拙の言う「日本的霊性」について考えるとイメージしやすい気がします。
鈴木大拙は、
霊性を宗教意識と言って良い。ただ宗教と言うと、普通一般には誤解を生じ易いのである。日本人は宗教に対してあまり深い了解をもっていないようで、或いは宗教を迷信の又の名のように考えたり、或いは宗教でもなんでもないものを宗教的信仰で裏付けようとしたりしている。それで宗教意識と言わずに霊性と言うのである。 *5-1
それなら霊性の日本的なるものとは何か。自分の考えでは、浄土系思想と禅とが、最も純粋な姿でそれであると言いたいのである。 *5-2
と言っています。
前述のようにプロテスタントは、個人が聖書を通して神と向き合うことを重視します。一方、浄土系思想でも個人の内面、個人の信仰を重視するという傾向があります。ただ、この場合の「個人」の考え方が随分異なっているようです。
プロテスタントは、神と直接関係を持つもの、神の救済の対象として一人一人の個を認識しています。一方鈴木大拙は、日本的霊性が現れる個のことを、自己否定の経験を乗り越えた「超個己性の人」であると言っています。
超個の人は、個己と縁のない人だということではない。人 は大いに個己と縁がある…。彼は個己を離れて存在し得ないと言ってよい。それかと言って、個己が彼だとは言われぬ。超個の人 は、そんな不思議と言えば不思議な一物である、「一無位の真人」である、「万象之中独露身」である。この人が感ずる物のあわれが日本的霊性の律動である。
この超個の人 が本当の個己である。『歎異抄』にある「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という、この親鸞一人 である。 (アンダーラインは、原文では傍点)*5-3
プロテスタンティズムと浄土系思想は、同じように「個人」の宗教性・霊性を重んじる傾向がありますが、その個人のとらえ方がかなり異なっていることがわかります。
私はどうも、現代日本人の抱える生きづらさの一部は、一人の人間の中で、プロテスタンティズムから導かれた「建設的な特質」に価値を見いだす自分と、「超個」の思想を持っている自分がぶつかりあうことからきているような気がします。私自身もこの「ぶつかり合い」、「分裂」とともに育ち、現在もまたその只中にいます。
書物からの引用だけをあげて話をしてきましたが、私が考えている「日本人における市民宗教的感覚(日本的霊性)」について身近な例をあげて説明したいと思います。
今回とりあげるのは、私の妻のエピソードです。
私の妻は、大学文学部の教員をしていて、近現代の日本文学を主な研究領域にしています。私と彼女が出会ったのは2004年の夏ですが、それまで彼女はカリフォルニア州のスタンフォード大学に1年間在籍していました。
所属していた神戸女学院大学で1年間の研究休暇を取り、それを利用してアメリカに行ったのだそうです。
研究上の目的もあったそうですが、そのときはかなり精神的にまいっていて、将来についての漠然とした不安が大きく、休養を取りたいという気持ちが強かったそうです。いわゆる「どん底状態」でした。
彼女はクリスマスの夜に、一人でスーパーへ買い物へ行き、買い物袋を下げてスーパーから駐車場へ戻ってきました。そして、車へ荷物を乗せて、自分も車へ乗ろうとしたとき、ふと空を見上げました。
すると目の前に、一本の大きな木がありました。
とても大きな木で、てっぺんまで見るには、顔をかなり上へ向けなければなりませんでした。そして、クリスマスの夜空に静かに立っている木を、彼女は心の底から「美しい」と思いました。
そのとき彼女は、
「この世界には、自分と全く関係のない生があること。そしてその自分と全く関係のない生である木が、本当に美しいものであること」
に気がつきました。
彼女はこの経験を通して、自分はそれまでの人生において、美しいものを見たときに、自分の「喜び」の中にその美を回収し続けてきたということがわかりました。
しかし、この目の前の大きな木は、自分とは一切関係のないものとしてこの世の中に存在しています。そして、なおかつ美しい。
この経験を通して、「自分の人生には全く意味が無い」ということが彼女の腑に落ちたのだそうです。
突然の感覚でした。
そして、その経験を経て色々な事が説明できるようになったそうです。
人生における、ごくごく小さな出来事のようでもありますが、これは彼女の人生において、非常に重要な経験になっています。
「出来事のサイズ」と、個人の中での出来事の重要性は必ずしも相関しないということの一つの例とも言えそうです。
そして私には、このエピソードの中に、日本人が持つ市民宗教的感覚、あるいは日本的霊性が現れているように思います。
彼女はその頃仏教関係の本をかなり読んでいたそうで、そのことと、このような感覚を得たこととの間には、何らかの関係があるのかもしれません。
また、「海外生活中に偶然出会った一本の木」という状況が、彼女の言葉で言う「自分とは関係のない生の存在」に気づかされたきっかけとなっているようです。
仏教のことを「関係性の宗教」という言い方で説明することがあります。
これは、私の理解では、「関係性(縁)の中でしか個というのは存在しない」というような意味だと思います。
そして彼女は、自分というものには全く意味が無くて、その意味の無い自分と木が出会ったということにのみ 、自分の生を感じたということではないでしょうか。
彼女とパロアルトの一本の木の間には、そのような形で縁があったのでしょう。
繰り返しになりますが、私にはこのエピソードには、とても日本的な宗教感覚が溢れていると思います。しかし、これはどうも、「分かる人には分かるけれど、分からない人には分からない」というものでもあるみたいです。
実際、この経験をした後彼女は、日本に住む大学時代の友人とのメールのやりとりで、上記の話をしたのだそうです。
「自分の人生に意味が無いということをはっきり感じた」と、彼女が友人に対して伝えたところ、その同級生は「いや、イイダさん(彼女の名前です)の人生にはちゃんと意味があるよ」と慰められたのだそうです。
その返信メールを読んで彼女は、同級生の思いやりに感謝するのと同時に、自分の感覚がきちんと伝わっていないということも分かったということでした。
かたや「人生に意味は無い」という気づきによって救いを得た人間がいます。それに対して、
「おめでとう」でも、「温かい風呂に入って寝なさい」でもなくて、「いや、あなたの人生には意味があるよ」と慰めの言葉をかける人がいる。
イイダの気づきは日本的霊性に根ざしたものだと思いますが、この同級生の「慰めの言葉」は、それとは少し違っていて、むしろキリスト教に近い考え方です。そもそも、「慰める」という行為自体が、キリスト教的なような気もします。
私はこのイイダの優しい同級生の方と(電話だけですが)何度か話をしたことがあります。私よりも少し年上で、1960年代生まれです。
もともと大変優秀な方だったそうですが、大学卒業の時点から精神の落ち込みが続いていて、卒業以来ずっとご実家で過ごされている方です。
そのような状況を踏まえた上で、「あなたの人生には意味があるよ」という彼の慰めの言葉のことをあらためて考えてみると、一人の日本人の中に渦巻くさまざまな精神性に複雑な思いを抱いてしまいます。なんと優しく、なんと切ない言葉でしょうか。
【二つの思想のぶつかり合い】
プロテスタンティズムに見られる「建設的な特質」に何の疑いも持たない人というのは、非常に強いです。
それが人生における最上の価値なのですから、どんどん「勇気」「未来指向性」「対人スキル」「社会的責任」を追求していけば良い。もちろん、そのやり方に疲れたら休む必要があるかもしれません。でも、少し休んだら、再び同じ道を邁進すれば良い。
しかし、現代を生きる日本人の中には、自分が追求しなければらないと思い込んでいる「建設的な特質」に対して疑問を投げかけるような、もう一つの仏教的な思想があります。当然、人によって、その程度は異なるわけですが、「空」に代表される仏教的な思想は、「増加、発展、成長」が信仰の実現と考えるプロテスタントとは随分異なっています。
「自己の幸福を追求する」という考え方は仏教には無いはずで、むしろ自我をできるだけ小さくすることが人生の苦悩を減らすと考えます。かたやプロテスタントでは、幸福の追求は信仰実現の目的だったり、方法となっています。
私は宗教学の専門家ではないので、このくらいにしておきますが、生きづらさの原因を、個人の中に内蔵された2つの宗教的文化のぶつかり合い(「建設的な特質」と「空」のぶつかり合い)と考えることは、自分の中で、結構腑に落ちるところがあります。
少し見方を変えると、「個人の中での伝統的主流宗教のぶつかり合い」というのは、夏目漱石を代表として、近現代を生きる日本人が持つ継続的な「悩みのパターン」なのかもしれません。
しかし、現代社会における「経済合理性」は、元をたどればキリスト教的価値観のもとで広がっており、個人の中、特に社会的立場の弱い若者において、ここまで2つの宗教的文化がぶつかり合った時代はこれまでになかったのではないかと思うのです。
かつて、この「悩みのパターン」は、(漱石のように)ごく少数の知識人において象徴的に見られるものでした。しかし、現代においては、若者を中心とした個人個人が突きつけられる問題 として、これまでにない広がりと深まりを見せています。
戦後日本の高度経済成長の時代には、生活実感の向上というベクトルが、西欧的(キリスト教的)価値観と一致しており、個人の中での宗教感覚のぶつかり合い、分裂というのは今ほど問題にならなかったのだろうと思います。
しかし、国際競争力の低下、経済成長の鈍化は、経済合理性に代表される西欧的(キリスト教的)価値観の負の側面を一人一人の人間にもたらし始め、あらためて今を生きる日本人に「キリスト教的文化と仏教的文化のぶつかり合い」をもたらしたのではないかと思います。
宗教的感覚というのは人それぞれ違うものであり、この私の暴論が現代日本を生きる人たちの苦悩のすべてを説明するものだとは思っていません。しかし、このような考えをすることで、自らの苦しさを和らげられる人も、少しは存在するような気がするのです。
平成生まれの大川君が、「日本人における伝統的主流宗教のぶつかり合い」という話を聞いて、どのような感想をもたれるのか、実感が伴うものなのかどうか興味があります。
釈先生は、複数の宗教が現代社会にどのような影響をもたらしているか、ということについて大変わかりやすく解説されています。興味があればぜひ『ゼロからの宗教の授業』を読んでみてください(「宗教感覚の個人の中でのバッティング」ということについて釈先生は、カトリック教徒であった遠藤周作について言及しておられます)。
ひょっとすると、今後日本においても、国際競争力のある人材を育てる準備として、小中学校でポジティブ教育が導入されるということがあるかもしれませんね。
そのくらいだったら、伝統的主流制度宗教を比較する授業を行ってもらいたいです。これはそれこそ、他の先進国ではできない、非常にユニークな(日本という国に特徴的な)人材を育てることにつながるような気がします。
【「健全モデル」についての研究は、「疾患モデル」研究の単純な裏返しなのか】お話してきたように私は、ポジティブ心理学とそれにまつわる状況に対して、ある種の警戒心を抱いてしまっています。
そして実は、私がポジティブ心理学に警戒心を持ってしまうのは、宗教的な背景との関連だけではありません。
私は、医師あるいは医学研究者としてポジティブ心理学に接したときにも、考えなければならないいくつかの問題があると感じています。
従来の心理学研究は、「疾病や障害が回復する」「問題が無くなる」ということを指標にして、科学的研究を進めて来ました。しかし、「ポジティブな心性を科学する」ということは本当に可能なのでしょうか。
疾病や障害は、細胞から個体レベルまで、特定の細胞現象や症状をもたらします。しかし、人間の「ポジティブな状態」、「良い状態」というのは、特定の細胞現象や心身の表現との間に因果関係を説明できるものなのでしょうか。
「良い状態」というものは、個体において、ときには静かなものであり、ときには躍動的なものです。単一の現象としてそれを定義することはできません。
より小さな現象のことを考えてみると、細胞のレベルでは「良い状態」と「悪い状態」のことは、「順調に機能を果たしている状態」と、「問題を抱えた状態」の間にいくつかのグラデーションがあるという理解になると思います。
「問題がある」という状態は、1つの指標を使用して観察することができます。しかし、細胞や個体が「順調に機能を果たしている状態」というものは、複数の(普通は非常に多くの)指標について「問題が無い」というかたちでしか確認することができません。
もちろん、個体においては、特定の良い状態(笑うとか、脳波検査でアルファ波が出現するとか)を指標に研究することもできるでしょう。しかしそれは、非常に限定された、時間的にも短い指標にしかなりません。
このように、「病気である」ということと、「健康である」ということは、少なくとも状態の確認方法の上では、裏返しの関係ではないわけです。
(繰り返しになりますが、「病気であること」は、1つの問題を有するということで証明できますが、「健康であること」は、何か1つの指標で説明することはできないということです。)
となると、疾患モデルを扱うことと異なり、ポジティブな心性を研究対象として扱う場合は、特定の現象を指標にして研究を進行させることが難しくなります。
ですから、研究のテーマを「問題解決」から「良い状態の分析」に変えるということは、単に観察する対象を変えるということではなく、研究方法を根本的に考え直すところから始めなければなりません。
科学とは、裁判員裁判みたいに、「多様な生き方をしてきた人間の意見を集めて、多数決で最終結論を出す」というようなものではありません。再現性がある形で、特定の状況とその原因の関係を説明することが必要であり、その「説明方法の説明」にこそ、もっとも注意が払われなければなりません。
現在のポジティブ心理学は、ポジティブな生き方をするために必要なことを科学的に解明するというよりも、疫学研究的な面が強いようです。
たとえばこれには、「フリーランスの職業を選んでいる人は、自分の人生に幸福感を持っている割合が高い」といったような「相関研究」があります。
もちろん、これはこれで意義のある研究ですが、相関研究は、物事の明確な因果関係を証明する方法ではありません。研究結果の解釈や扱いには、慎重さが求められます。
まだ歴史が浅いポジティブ心理学に対する社会の関心は今後も高まっていくと思われ、バランスの良い形での 研究の発展を願います。
【ポジティブ心理学の一分野としての「フロー体験」】
宗教的な視点、そして医学的な視点から、ポジティブ心理学について考えていることをお話ししました。
色々なことを言いましたが、ポジティブ心理学には、興味深い要素が沢山含まれてもいます(「なにを今更」という声が聞こえてきそうですけれど)。
セリグマン教授は前述のTEDトークの中で、幸福な人生を送るためのキーワードとして、「ポジティブ感情、我を忘れるほどの充実感、人生の意義」をあげました。
ポジティブ感情は、快楽との関係が深いものです。そして、「我を忘れるほどの充実感」の例としてあげられているのが「フロー体験」です。
フロー体験は、ポジティブ心理学の主要なサブ領域の1つに位置づけられていますが、人間の認識についての概念であり、研究対象として比較的扱いやすいもののように感じられます。
偉そうですけれど、ちょっと予習的な情報として、「フロー体験」のTEDトークもご紹介しておきます。
VIDEO
いよいよ新年度が始まりますね。ご卒業おめでとうございます。
*1 ポジティブ心理学(ナカニシヤ出版)島井哲志編 p22
*2-1 宗教聖典を乱読する(朝日新聞出版)釈徹宗 p148
*3-1 ゼロからの宗教の授業(東京書籍)釈徹宗 p105
*3-2 同 p114
*4 現代アメリカ宗教地図(平凡社新書)藤原聖子 p82
*5-1 日本的霊性(岩波文庫)鈴木大拙 p17
*5-2 同 p20
*5-3 同 p86