月別アーカイブ: 2014年2月

2月17日

幼稚園にニレを送ってから、大学で国試対策関連の授業を一コマ。

午後からは本日も産業医。面談が数名。

終了後、卵と麻婆豆腐の材料などを購入して帰宅する。

イーダ母が名古屋方面から朝日ヶ丘ホテルに来て、4人で夕食。麻婆豆腐をすすりながら、菊正宗を少しすする。翌日は凱風館の代稽古担当なので、酒は控えめにした。

リビングルームが寒いので、ガスのラインを引いてガスファンヒーターを設置することをイイダが計画しているらしい。

 

「M君へ語る私的身体論」③ 合気道家と愛猫家

合気道は試合形式を取らないので、通常のスポーツや競技武道では勝負関連のことに使用する脳の情報処理能力を、勝負以外のことに回すことができます。人間が意識の上で情報を処理できる能力には限界があるということは科学的に説明がなされていて、中枢神経系が情報を処理できる能力は、最大1秒間に126ビットだそうです。

 そして、他者が何を話しているか理解するには、毎秒40ビットの情報を処理しなければならない。このことは、「意識上の情報処理には明らかな限界がある」ということを示しています。

勝負の結果や、勝負にまつわる駆け引きについて考える必要が無い合気道は、その分、身体運用と身体を介したコミュニケーションに集中できるという特長をもっているわけです。

まあ、対立的な構図というのは必ずしもはっきりとした「勝負」「ゲーム」という形をとらないこともままあるわけですが。
何を言いたいかというと、合気道が試合という形式をとらないとしても、それを対立的な構図で行うということは、ありがちだということです。

しかし、ここではそのような話をしたいわけではありません。やはり合気道の大きな特徴は試合形式をとらないことであり、ここでは、そこから得られるものという話を進めたいと思います。

 合気道の稽古中、稽古相手から受け取る情報入力のほとんどは非言語的なものです。そして、それが個人の中で部分的に言語に変換されます。例えば、合気道の身体接触を通じて、「この人、真面目な人だなあ」とか、「いま、疲れてるんだな」とか「見栄っりだな」とか、「お母さんみたいな人だなあ(男なのに)」とか、このような形で非言語的な情報が言葉に変わっていく。

一方、それがあまり上手くいかない時には、言葉になりきらない体感が「宿題」あるいは、「無形文化財」みたいな感じで体に残る。

 私は、合気道の稽古は、決まった体感や状態を得るためにするものではないと思っています。特定の体感を求めて動くというのは執着的な稽古になりやすく、武道ではそのような状態をあまり良しとしないようです。

 それでは、「何か」を求めるわけではない形で合気道の稽古をすると、結果として何が起こるかというと、身の回りの状態の「認識システム」が活性化する、敏感になる、冴える、ということが起こる。

保阪和志が猫と関わることでしか得ることのできない経験や、認識を持つのと同じように、私は合気道の稽古をすることで、自分の周りの世界の認識システムが変化するのを感じているのです。

 そして、そのような特有の感覚を持つ状況は、少しずつですが稽古中だけでは留まらなくなってきていて、稽古以外の時間でも、同門の仲間との人間関係がそのような認識システムのもとで築かれるようになってくる。

そしてそのうちに、その固有の認識システムは、合気道以外の場所でも使われるようになってくる。きっと、愛猫家もそうなんでしょう。最初は「猫を愛する」という振る舞いは、その人と猫の間でだけの関係に限定されていたのが、次第に愛猫家として社会全体を認識するようになってくる。このようなタイプの人間はもしかすると珍しいのかもしれませんが、少なくともそのような形で世の中を見ることは、その人の中に固有の時間と空間が立ち上がっていて、それは小説的なものにつながっている。

 そして、保阪和志はそのような場所を生きている。同じように私は、最初は合気道をしているときだけに限定されていた自分の認識システムの変化が、次第に合気道以外の状況にも広がってきているのを感じている。

話が戻りますが、合気道の道場の人間関係では、身体接触を介した他者理解というのが、社会一般での人間関係の場合よりも明らかに重視されていると思います。

武道をするためにみんな集まっているわけなので当たり前といえば当たり前なのですが、前述のとおり、合気道は、勝負という形式をとらない分だけ身体感覚に敏感になりますから、身体接触を重視する傾向が強くなります。

大学生であるとか、会社員であるとか、主婦であるというような社会的肩書きも、もちろん人間関係を構築するうえでの情報としてインプットしているんですけれど、それと同じかそれ以上に、「この人は、とても受容的な合気道をする人だ」とか「この人は、わりとマッチョな技を好む人だ」とか「あわてんぼうだ」とか「なんとなくエロい」とか、「自分にしか興味が無い人だ」とか、そのようなことを身体情報としてインプットしていて、それをもとにその人と付き合ったりする。

たとえば、同じ道場に通っているハラダさんは新幹線を作る会社に勤めている女性で、現在合気道参段。物腰の柔らかい、とても礼儀正しい人ですが、いざ合気道の時に手を取り合ってみると、自分の持つ「間」(タイミングに近いものです)や流儀というものを非常に大事にしているということを強く感じる。

ハラダさんは、自分の持つ筋目を決して曲げたくないというような意志の強さがあり、「もたいまさこ的存在感」をこちらに抱かせる。こちらがタイミング悪くふざけると、いざと言うときには眉をひそめて怒られるような気がする。

 一方、イノウエさんは私と一緒に道場の運営に携わってくださっていますが、こちらも合気道参段。入門されたのは不惑を超えてからですが、とても情熱的な合気道をされる。身体は大きくないのですが、自分の身体からエネルギーを発散させることをとても大切にされている。

これまでは、エネルギーの発散の仕方を上手く見つけることができずに苦心されることも多かったのではないかと想像するのですが、ここ最近、あらたな境地を得られているように思う。

イノウエさんに対して私は、「遅れてやってきた本物」というような印象を抱いており、彼女のことを「凱風館道場のシンディー・ローパー」と密かに名付けている。

イノウエさんはいよいよ、『ハイスクールはダンステリア』から、『トゥルーカラーズ』状態に移行している(1983年に発売された『ハイスクールはダンステリア』は、現在『ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン, ”Girls Just Want to Have Fun”』という、原題のカタカナ表記に変わっている)。

 道場の書生をしているユアサくんは、20代後半の男性で、もともとダンスをしていたこともあり、同場内で最も運動神経が良い人の一人である。彼は「猫ダンサー」と自称していて、自らのメールアドレスなどにその名前を使っている。合気道の技の受けをするときの受容性がとても高くて、まさに猫のように身をこなす。

彼が私の腕を取り、彼に技をかけている時には、コラット種のような短毛の猫の背中を撫でているような恍惚感を感じることがある。ユアサくんの受けには、「光」と「温かみ」をはっきりと感じる。もともと、口数が少なく、けっして社交性が高い人間では無かったが、合気道の道場で書生の仕事を続けるうちに、道場での自分なりの棲み方を見つけたように見える。ユアサくんは、こちらから近づかなくとも窓さえ開けていれば、彼にとって必要な時に、こちらに近づいてきてくれる。猫である。

私はこのように、自分が身体接触から得た情報を自分の中で言語に置き換えるようなことをしています。そしておそらく、合気道をしている人は、それぞれ少しずつやり方が異なるとしても、同じようなことをしているのではないでしょうか。M君はどうでしょうか。

 興味深いのは、合気道をする人は身体接触という非言語的コミュニケーションに基づく情報のみを重視して、会話などの言語的なコミュニケーションを軽視するかというと、そんなこともないというところです。

 合気道をする人は、自分が稽古相手と重ねた「非言語的コミュニケーションにおける感覚」と、「言語的コミュニケーションで得た感覚」が同じものなのか、つい確認したくなってしまう。

だから稽古の後も、当たり障りの無い会話をすることで、言葉によって「非言語的コミュニケーションで得た体感」の確認作業を行うことになる。私は、合気道の道場での人間関係はこのような形でつくられているように思います。

 

2月16日 「能の新年練習会。能とギャツビー的な闇について。」

凱風館で行われた下川正謡会・新年練習会に参加。

素謡は『蝉丸』のワキ、舞は『高砂』の舞囃子。
今回は、ご病気で欠席の男性がおられたので、地謡を沢山つとめさせていただいた(Hさんの一日も早いご回復をお祈りします)。

終了後の懇親会では、下川先生から謡と舞のそれぞれについて、注意をいただいた。さらに、「あなたは器用貧乏なところがあるから(注意するように)」というコメントも頂戴した。

私は決して器用な人間ではないし、小さい頃から不器用であることにコンプレックスを抱いて生きてきた。だから、下川先生のこの言葉には結構傷ついたというか、混乱した。

というのも私は不器用なので、何とか自分がやっていることに格好がつくようにと(特に舞)、細かい時間を見つけてはまじめに稽古をしているつもりだった。

そして、さらに、できるだけ舞の流れがぎこちなくならないように、生き生きとした舞を表現できるようにと、実直にやってきたつもりだったのだが、その私の取り組みの結果は、先生からすると「器用貧乏な舞」ということになるみたいなのである。

上述のような事を考えて稽古している私が器用貧乏に見えるというのは、「ギャツビーの心の闇」みたいなものが私の中にあって、それで私は、何かをごまかすような身体運用をしているのだろうか?

私は考えすぎなのだろうか。

(そして、自分の舞を「ギャッツビーの成功」に例えるのは、あまりにおこがましくはないか…)

 

でも、それはさておき、欠点(不器用であること)をなんとか補おうとして行った自分のパフォーマンスについて、その正反対の表現(器用であるということ)を用いて注意されるというのは、何とも皮肉というか、人生の悲哀を感じずにはいられない。

私がよかれと思ってやっていることについて、下川先生は、「それではいけない」と教えてくださったわけである。

繰り返しになるが、私は器用な人間ではない。はっきり言って、下川先生もそのことはわかっているはずである。その上で何故、下川先生は私に対してこの言葉を使われたのか。それを考えなければならない。

不器用だからこそ、こつこつと稽古して行っている舞が「器用貧乏」になるというのはどういうことなのだろうか。

何か表層的なものを追いかけているようになっているのだろうか。

それは確かにあり得る。

私は『高砂』の舞囃子を、きびきびと力強く舞いたいと考え、繰り返し片山九郎右衛門さんの(清司さん時代の)DVDを見ている。

もしかすると、それが、表層だけの模倣になってしまっているのかもしれない。私はこの九郎右衛門さんの舞が大好きで、とくに神舞が終わった後、「げに様々の舞姫の」の謡が始まったところで、気が満ちて顔が紅潮してくるところを観るとぞくぞくしてくる。

自分なりになんとか、このエネルギーを表現したいと思ってやっているのだが、興奮しすぎるとぎこちない舞になってしまうだろうし、なかなか難しい。

一つは足の運びが、かなり早くないと「きびきび」とは舞えないということがわかってきたので、このあたりがさらにしっかりしてくると、舞の上滑り感が減ってくるのではないだろうか。

運足は舞の基本だから、やはりこちらをもっと充実させていかねばなるまい。

私は本当は器用ではないけれど、下川先生は、そういう言葉を使って、さらに稽古に励むように鞭を入れた、というところが実際のところなのだろう。

「謙虚でないと、いい舞は舞えません」

という下川先生の言葉を、もう一度かみしめる。

 

話は少し変わるが、実は、「器用・不器用問題」というのは、私にとって日常的な問題である。それも、私のパートナーのイーダがめちゃくちゃ器用なのである。

運動神経がよい、というのとは違うのだが、リズム感と音感がよく、手先も器用で、裁縫から楽器演奏までひょいひょいとこなす。当然、不器用な私としては羨ましいと思わなくもない。

しかし、器用な人と一緒に生活するというのは、嫉妬の炎で自らの身を焼いてしまうよりも、「あなたすごいね、さすがだね」といっていろんな事をやってもらう方が現実的である。

だから私は、この人のことを羨ましいと思わず、そのかわりに「ありがとう(浜村淳風に)」、と思うことにしている。

ただやはり、そうはいってもイーダも仕舞をやっているので、あちらばかりが舞を上手になって、こっちはいつまで経っても形にならないというのではつまらない。お月謝を払って、自分の惨めな舞に指をくわえるということをするほど私はマゾではない。

となると、必然的に私は、自分は器用じゃないから、イーダとは違う路線の舞を表現しなければならない。ということになってくるのである。

彼女は正確な動作というものが好きな人で(それは私も一緒なのだが)、静かで精緻な動きを求めているところがある。舞を習い始めたのは私よりも1年ほど早いし、実際に私よりも上手な訳なのだが(合気道も一緒だが、男女が同じくらいの時期に稽古を開始すると、女性の方が先に上手になる)、どちらかというと学級委員的というか、かしこまりすぎているところがなくもない。

別に、彼女の舞を否定したいわけではなく、私は彼女とは別の路線を自分で切り開いていかなければ、舞を楽しめないと考えたわけである。そのためにはあちらの舞を十分に研究しなければならない。

その結果、私が考えたのが「生き生き・さわやか路線」である。

ここに活路を求めるべく私は、自分の舞の道を切り開いてきた。しかし、その「生き生き・さわやか感」の構築がどうも、「ギャツビー的楼閣」となって来た可能性がある。

うーむ、どうしたものか。

 

うん。

最近の私は、「しかたがないものはしかたがない」という基本的な考えの基に行動している。

「兄弟の中が悪いのは仕方がない」とか、「親父に裏切り者扱いされるのも仕方がない」とか、「後片付けが苦手なのは幼稚園児の頃から変わっていないのだから仕方がない。なんか、5歳の娘も俺に似ている気がする。仕方がない」

みたいな感じで使用する。

なので、結局私は、「器用貧乏と言われても仕方がない」で、行くことにした。

まじめに稽古を重ねて、「器用」と「貧乏」のどちらが残るのかはわからない。が、どうなってもしかたがないではないか。

私は私の舞を謙虚に優雅に舞うのである。

 

「おれたちは「器用貧乏」でいくしかないな」と、懇親会で向かいに座っているイーダに言ったら、

「なんでわたしまで一緒にするのよ」と切り捨てられた。

学級委員には人の心がわからないのだ。仕方がない。

 

 

 

2月15日 「合気道当事者研究特別版をする」

2月15日
朝から、日曜日の下川正謡会新年練習会の準備。二組ずつの着物、袴、謡本などを用意する。昼には、呉服の松美屋さんが朝日ヶ丘ホテル(私の家のことです)に来られる。

芦屋ラポルテ本館に店をかまえていた松美屋さんは、ご主人の腰痛が悪化して、昨年の夏に店をたたまれた。扱っている反物は、流行に左右されない古風なものばかりで大変品がよく、短い時間ながらも我々家族は世話になった。

お知り合いの車に同乗され、杖をついて拙宅にこられた松美屋さんに、無地のお召しの誂えを注文した。これは宴席や茶事で身につける予定。

こちらから依頼した話ではあるが、本音を言うと、このような来訪に対して「やっぱり生地が気に入らないのでいりません」とは言いにくい。気に入ったものが見つかり、また、想定の範囲内で事が収まって正直ほっとした。

 

その後、18時からのイベント参加者に食べてもらうおにぎりをローソンで大量購入してから凱風館へ。

合気道の稽古終了後は、合気道当事者研究特別版を行った。ゲストは、べてるの家の向谷地宣明さん。私に宣明さんを紹介してくださった、漫画家の一ノ瀬かおるさん、池田市のグループホームむつみ庵の酒井さんも来られた。

急遽、別のご用事で神戸に来られていた、向谷地生良さん、亀井英俊さんが参加してくださった。向谷地生良さんは、精神科のソーシャルワーカーとして、浦河町にべてるの家を作った方である。

このような形で、内田樹先生と向谷地生良さんにご対面いただく機会ができるとは夢にも思っていなかった(宣明さん、一ノ瀬さんに感謝)。

向谷地生良さんが、べてるのメンバーの皆さんと一緒に始められた当事者研究は、現在、全国各地で行われ、また、「当事者研究に関する研究」も盛んに行われている。

私たちの合気道当事者研究が、当事者研究の「本家」の方々にとってどのようなものとして映るのか若干の心配もあった。

しかし、我々の地道で小さな活動の積み重ねは、私たちなりに何か大切なものを育んでいるという確信だけはあったので、いつも通りの我々のミーティングをそのまま見てもらうことにした。

 

発表者は甲南合気会の田村さんで、テーマは「身体に力が入ってしまうこと」。

合気道を始めてまだ4ヶ月という田村さんの発表に対して、参加されたみなさんから、質問や共感など、興味深い発言が沢山出た。
また最後に、内田師範と向谷地生良さんが貴重なコメントをくださった。

(内田先生は、「悩みと問題」について。向谷地さんは、「カウンセリングと身体性の関係」について。ご自身の体験、当事者研究が生まれた経緯、そして、合気道当事者研究のご感想などをまじえて)

「どのような状況で緊張するか」という話題の時に、べてるの亀井さんが、カフェでコーヒーを運ぶときの状況を例えにして、発言された。

合気道当事者研究において、幻聴の当事者研究の第一人者である亀井さんが発言してくださったときは感慨深いものがあった。私たちのミーティングが、亀井さんに自然に発言してもらえるような場所にまで成長してきたということが嬉しかったのである。

通常の合気道当事者研究は、私が凱風館で稽古枠をいただいている水曜日の夜(気の錬磨稽古・研究会)に、隔週のペースで行っている。2012年の9月に開始して、2013年は22回ミーティングを持つことができた。今年はすでに3回行っているので、この特別版は通し番号で行くと、37回目ということになる。

ここまでこれたのも、私の思いつきで始めた試みにノリよく参加してくださった甲南合気会の仲間と、稽古を温かく見守りつつ、また、ご参加くださったときには毎回貴重なコメントをしてくださる内田先生のおかげです。どうもありがとうございます。

終了後の懇親会(さかなでいっぱいプラス)では、宣明さんから、「合気道と当事者研究のなじみの良さを感じました」というご感想をいただく。今後の継続的な交流についてのお話も出た。大変ありがたいことである。

当事者研究には全国交流会というものがあり、そちらにもよろしければぜひ、とも。

邪魔をしてしまうような気がするが、こちらもチャンスがあれば行ってみたいし、我々の活動の一端を紹介したい気持ちもある。

ポイントは、術技の向上を直接的な目標としてミーティングを行っているわけではない、ということになるだろうか。

もともと、私が合気道当事者研究を始めたのは、向谷地生良さんの「これからは、べてるの活動のあり方が、社会においてどのように生かされるのかについて考えることも大切だと思っている」という言葉に始まっている。
(私はこの言葉を医学書院のケアをひらくシリーズで読んだはずなのだが、どこに書いているのかどうしても探し出すことができない。ごめんなさい)

道場というコミュニティにおいて、「自分自身で、ともに」をキーワードとした当事者研究を行うことは何か新しいものを生み出すのではないか(人間が閉じこもりがちな、自分の殻を破る一つの方法になるのではないか)。そして、この活動は、私に多くの発想と刺激をもたらしてくださった、べてるの家と向谷地生良さんに対する、ひとつの「返事」になるのではないかと考えて、この活動をはじめた。

 

というわけで、邪魔かもしれないですけれど、都合がついたらぜひ全国交流会にも参加させていただきたいと思います。

特別版にご参加くださったみなさま、関係各位に深く感謝いたします。

 

2月14日

イイダと二人でニレを幼稚園に送った後、能の稽古。新年練習会前の最後の稽古になった。

二人で『蝉丸』の謡(シテの逆髪がイイダ。ツレの蝉丸を私)を稽古していただく。本日は加えて、『山姥』と『西王母』の地謡の稽古。

終了後は大学へ行き(御影の稽古場から車で10分ほどなのでありがたい)、4年生の学生二人に成績を配付。

朝から降り始めていた雪が、だんだん激しくなってきた。

午後は国家試験対策の授業を2コマ。30名ほどが受講。受講して欲しい学生の顔が見当たらず、心配になる。

結構ハードな内容だったが、最後までみんな頑張ってついてきてくれた。この時期になると、国家試験に向けて頭も身体も随分練り上げられてきていると感じる。

授業が終わると、雪は上がっていた。

ニレを幼稚園に迎えに行って、帰宅。今週はワンドロップの練習などがあり、寝る時間が遅くなったためか、帰りの車内でニレは寝てしまった。

幼稚園児と両親二人の生活は何かと慌ただしく、もう少し子供にゆったりとした生活をさせてやりたいのだが、なかなか難しい。

春からはイイダの仕事場が名古屋に代わり、我が家の生活スタイルも新たなフェイズを迎える。自分自身共働きの家庭に育った経験から、子供には安心した気持ちで過ごしてもらいたいという気持ちが強い。

子供はいずれ巣立っていくものだから、この先ずっとと言うわけではないだろうが、まだしばらくは手がかかりそうである。手がかかりそうというよりも、一緒にいる必要がある。

と、言うように核家族というのは、構成メンバーが少ない分、親子の関係について意識する機会が非常に多くなる。

自然、構成メンバー同士の関係が近くなりすぎたり、強固なパワーバランスが設定されてしまったりということは、起こりやすくなるだろう。

社会活動において、家族以外の人と沢山会っていたら親子の関係が適切に保たれるかというと、おそらくそれでは不十分であり、家庭生活の「風通し」を良くしておくということを大切にしなければならないと思っている。

言うのは簡単だが、なかなか難しいところもある。まあ、背伸びせず、つかず離れず、生活を楽しんでいくと言うことなのだろうか。

我々夫婦は、自分たちの加齢、それぞれの親の加齢と、いよいよこれから向き合うことになる。できることをしていくしかない。

世の中には,シングルマザー、シングルファーザーとして子育てをしている人は沢山いる。本当に大変だと思う。さらに、自分自身の病気や、介護が必要な親を持ちながら子育てをしている人もいる。本人の健康はある程度保たれていても、パートナーが病を持っている場合もある。

きれい事は言えない。

「あの人は自分よりも大変な状況で頑張っている。だから私ごときが文句を言ってはいけない」

というのは、あまりよくないと思っている。このような考え方は、結局自分よりも弱い人間に、しわ寄せが行く可能性がある。我慢が自分のキャパシティーを超えてしまったときに、子供に対して何か問題行動を起こしてしまったり、親子関係が共依存的になってしまう可能性がある。

「あの人は自分よりも大変な状況で頑張っている」ということを知るのは必要なことだ。その上で、自分の文句も含めて、その人それぞれの生活のリアリティを受け入れていく必要があるのではないか。

うーん、まだうまく説明できない。
ひとりひとりの文句や生活のリアリティというのは「糸」みたいなもので、この糸が、個人や家庭や共同体や社会のなかで、沢山の時間と空間の中に編み込まれていくと、縫い物はどんどん落ち着き場所を得るというか、状況になじむというか、縫い物がしっかりしてくるような気がする。

 

家に着くと、丁度イイダも大学から帰ってきたので、二人で夕食の準備をする。牡蠣フライを作って食べた。

話をしながら、『水曜どうでしょう』の「ヨーロッパリベンジ」も少し観る。

食事の途中でニレも起き出して、卵かけご飯を食べた。

羽生選手にはもちろん頑張っていただきたいが、残念ながら私には夜中にテレビを観て「夢をありがとう」と言っているような暇はない。

でも、応援はしているんだ。

 

 

 

「M君へ語る私的身体論」② 合気道・保阪和志・猫

M君と私は、大体週に一度くらい道場で会っているでしょうか。よく話もしますが、あらためて考えてみると、そのほとんどは、「JR神戸線、今日も遅れてるなあ」とか、「和歌山で海水浴するんだって」とか、そのような時候の挨拶的な事ばかりです。

私はあまり、通常の稽古の後で居残り稽古をしたり、合気道の技について意見交換をしたりという習慣を持っていないので、M君以外の合気道の知り合いとも、技の話をあまりしません。ときどき稽古の後にビールを飲みに行って、「自分の中では、合気道をすることと、仕舞を舞うことの間に境界をつくっていない」とか、そういう話をすることはあるんですけれど、道場の中でも外でも、合気道の一つの技についてじっくり意見を交わすというような習慣がないんです。

「稽古で得た技の体感」というのは言葉にできないものが非常に多いですよね。そして、その感覚には、心の持ちようから全身の使い方まで、実に様々な要素が絡み合っています。それらの感覚の中から一部のものだけを抽出して、たとえば、「ある技での手の取り方」みたいなものを、会話が成立するレベルまで単純化するという作業に戸惑いを感じてしまうんです。そういう話の仕方は、身体を使う「状況」が限定されすぎているような気がするんです。

もちろん、普段の合気道の稽古でも、ある種の状況(太刀で相手を打つとか、こぶしを突きつけるとか)は設定するわけですけれど、それはもっと大きな文脈というか、流れの中にあるものとして私はとらえています。

一緒に合気道をする人間との間に、固有の時間を立ち上げることが大切だと思っているので、無時間的に、一つの「点」において技が上手くいくか行かないかと言うような話をするのは、あまり気が進まないんです。

これはあくまで私の考えであって、このような考えを持つことは、もしかしたらあまり良くないことなのかもしれません。ただ、私はどうしてもそのような形で合気道の技のことを直接的に話すことが好きじゃないんです。なので、それを無理に行うと他人に迷惑をかけてしまうかもしれないので、あまりしないようにしています。*

そして、私がここでM君に対して語りかけていることは、まさに自分がM君と合気道をするのと同じこと、私と君の間にここ以外では立ち上がらない「時間」を作りだすことだと思っています。私が、合気道をしているときにのみできること(ある種のコミュニケーションといっていいでしょう)を、ここでもできるのじゃないかと考えています。

そういう意味では、ここでM君に対して語ることは、その内容も勿論大切だと思っているのですけれど、M君に対して語りかけるというその「回路のあり方」に対して、私は大きな関心を抱いています。

 繰り返しになりますが、私が道場の仲間と稽古後に話すことは、「最近忙しいですか」とか「中間テストもう終わったの」とか、「出産予定日はいつだっけ?」とか、そのようなことばかりで、それ以上踏み込んだ話をほとんどしません。

道場における私の同門のみなさんとのお付き合いは、社交辞令的な会話をちょっとして、稽古をして、そのあと縁が合った人とは一緒にビールを飲みにいって、さらに、たわい無い会話を少し続けて。そんな感じです。

 しかし、だからと言って、みなさんと仲が良くないとか、意識的に距離をとっているとかそのようなつもりもありません。もちろん、自分よりも合気道の経験が少ない人から技についての質問をされたら、丁寧にお話しするようにしています。そのときは、基本技の手順みたいなことを言います。

もう少し合気道の話をさせてください。「私が合気道とどのように関わっているか。合気道のことをどのように感じているか」ということです。拙いものですが、これは私がどんな人間であるかということを、普段は社交辞令的な会話しか交わしていないM君に対して伝えることにもなると思います。

 保阪和志という小説家がいます。小説と同時に、小説論もいくつか書いています。保阪和志は、とても猫が好きなようでして、猫がいる場所で数人の仲間が緩やかな関係をつくって生活する小説を書いています。また、保阪さんは、猫の死に対して非常に心を痛めたことがあり、「猫の死は、関係の近い人間の欠落よりも辛い」というようなことを言ったりしています。

保阪さんは、猫と共に過ごしている人間の「認識のあり方」を描いています。あるいは、猫というものが存在したり、消えたりすることによって固有の時間が立ち上がること(小説的時間が立ち上がること)を伝えているように私には思えます。ただこれは、「猫とはなにか」を書くことではないんです。

「猫」なるものがあると、自分の認識が変化する。猫によって結びつけられる人間同士の関わりが変化する。猫とかかわることで、それ以外の状況では出てこない、固有のものがそこに生まれる。そこがとても大切だと私は思っています。

 それと同じように、私は、「合気道とはこういうものである」ということを言うつもりはなくて、合気道というものに関わる人間や、人間同士の関係が変化する。ということを言いたいのです。

残念ながら私は、「保阪和志が猫を愛するように、私は合気道を愛している」と言うことができません。しかし、それでも合気道を続けていることで、自分の生き方がかなり合気道に寄り添ってきたような気がしています。

 自分でそうしようと思ってそうなったと言うよりも、いつの間にかそのような生き方になっていたというのが正直なところです。「保阪和志が猫を愛するように私は合気道を愛している」と言えないことは少し寂しい気持ちもありますが、「私は他人に対して胸を張って、「合気道を愛している」と言えるような気持ちを持てていない」と素直に感じ、言葉にできるようになったこともまた、合気道のおかげだと思っています。

私は、2012年の秋に職を変えました。それまでは大学の医学部で医者および医学研究者をしていたのですが、今は神戸の女子大(神戸松蔭女子学院大学)で働いています。これを書いている時点で、職場が変わってから1年と3ヶ月が経ちました。管理栄養士を目指す学生に医学を教えるのが主な仕事ですが、大学に合気道部を作って、新しい職場でも合気道の稽古を始めました。

職場が変わると、自分のことを人に説明する機会が増えます。私の場合は、「佐藤先生は、合気道をしているんですよね」と聞かれることがよくあります。そして、そんな時にはだいたい決まって、「合気道って、どのようなものですか?」と引き続き尋ねられます。

 そのような状況は、大抵の場合エレベーターの中とか、講義のプリントを印刷している間とか、あまり説明する時間がないことが多いです。そのような時に私は、「合気道は試合をしない武道なんです」とか、「身体の感覚を研ぎ澄ませることを目的にしていて、芸術に近いものだと思っています」などと言っています。

 しかし、このような説明で納得する人はほとんどいなくて、私がそのように言うと、ほとんどの人は不思議そうな顔で、「はあ」とか「なるほど」などと呟いて、その場所から去っていきます。

 その場所に取り残された私は毎回、「また、合気道のことを上手く説明出来なかった」と小さく落ち込むのですが、話し相手がその場を立ち去らずに、私の次の言葉を待ち続けていることも時々あって、それはそれで非常に困ります。

 そういう時は仕方がないので、「合気道は、女子学生が行う課外活動として、非常に良いものだと思ってるんです」などと言葉をつないで、今度は私の方からその場を離れたりします(そして、また落ち込みます)。

 もしかしたら、M君も同じような経験を持っているかもしれませんが、合気道をしない人に対して合気道のことを簡潔に説明するのは非常に難しいです。そして、転職をきっかけにそのような苦い経験を繰り返した私が感じているのは、合気道をしたことのない人に対して合気道のことを簡潔に説明する場合はやはり、「合気道は試合をしない武道である」ということを入口にするのがいいのではないかということです。

*元々このような人間だった私が、後から「合気道当事者研究」という、合気道について語る試みをすることになる訳なんですが。このことについてはいずれお話します。

2月13日

ニレを幼稚園に送ってから、本日も産業医。

メンタル問題で休職中の社員と面談をする。復職へ向けて動きがでてきた。
空き時間に、明日の「管理栄養士国家試験直前対策講座」の準備を進める。学生が苦手な、感染症を扱うことにした。

このテーマを取り上げるかどうかは非常に迷うところがある。というのも、学生は苦手としており、また、一人で勉強しにくい分野なので、授業をすること自体には意味があると思うのだが、出題される問題数が少ないのである。

しかし、近年の国家試験出題傾向から考えると、感染症関連の問題は、絶対に1問は出る。わたしとしては、絶対に出ると分かっている問題についてロスしてもらうわけにはいかない。国家試験は選抜試験ではなく、正答率約60%をラインとしてそれ以上の成績を取っていれば合格できる。また、不合格者はおおむね1,2点に泣くのである。

私としては、この感染症を絶対的な「安全牌」として確保しておいて欲しいのである。出題される内容はそれなりに限られているので、不可能なことではない。

勉強する時期としても、本番まで一ヶ月と少しとなった今頃が丁度いいと思う。本番が近づきすぎては、勉強する分量の多さと、対価の少なさ(実はそんなことないのだが。感染症に関する知識は、人体以外の公衆衛生的な試験科目でも必要とされるのである)の前に嫌気がさして、「感染症は棄てよう」ということになりかねない。

では、一緒に頑張りましょう。

産業医の後は大学へ行き、本年度最後の教務委員会に出席。

終了後、イーダ、ニレと合流して御影の「四川」で腹ごしらえをしてからワンドロップの練習へ。

 

 

 

 

 

2月12日

幼稚園へニレを送った後、帰宅してライブへ向けた練習。

ワンドロップの次回の出演は、フォトグラファー宗石さんのウェディングパーティー。本番が迫っており、さらに追い込みをかけていかねばならない。

昼からは大阪で産業医の仕事。時々カウンセリング的なことや、受診についてのアドバイスをしている社員の方から、バレンタインデーのチョコレートをいただいた。ご主人の急逝をきっかけに心身のバランスを崩してしまった人なのだが、冬になると調子が悪くなりがちである。一緒に春が来るのを待っている。

夜は、毎週水曜日に凱風館で行っている気の錬磨稽古・研究会。

本日は隔週で行っている合気道当事者研究がある日で、発表は小林君がしてくれた。テーマは「腕の取り方、とらせ方」。

「腕を強く握られると、びっくりしてしまう」(カノさん)

「個人名を出すとあれなんですけれど、あの人と稽古するとこういう感覚があっておもしろい」

「私も、個人名を出すのはあれなんですけれど…」

「私も、あれなんですけど…」

「自分よりも身体の小さい人が相手だと、うまく動くことができない気がします」

「道場は実験室で、稽古場の外が本番という話を聞いたことがあるんですけれど…私は稽古場で腕を強く握られると、まだ合気道を始めて日が浅いですのでどうすることもできないんです。なので、「もうちょっと優しくつかんでいただけませんか」と相手の方にお願いすることにしています」(タムラさん)

などというような、様々な肉声が発せられた。

腕を強くつかむ人に対して、「優しく腕をとるようにしてください」とお願いすることによって、自分の腕の掴まれ方が弱くなる、ということは、最終的には自分の目的はある意味達せられているわけで、これは道場外の「本番」においては非常に有効な手段であり、すなわち、タムラさんはとてもいい「稽古」をされていると言うことなのではないか。

というような珍説(なのだろうか)を話してみる。

稽古には、早稲田大学合気道会の方が3名参加してくださった。

終了後帰宅し、夕食。

何も食べるものがなかったので、ハムエッグを焼いてウスターソースをかけて、ご飯にのせて食べた。

インフルエンザからは回復したが、頭痛と咳がまだ続いている。
ビール小瓶一本と、ワイン1.5杯にとどめた。

 

(プロフィールの写真は、宗石さんが撮影してくださったものです)

 

「M君へ語る私的身体論」①

【はじめに】
ここでは、相愛大学で行った授業内容をベースに文章化したものを公開します。大学生のMくんに対してお話する形になっています。

***

相愛大学で2013年度後期に行った「身体論」は、私と、臨済宗の僧侶である佐々木奘堂先生の二人によるリレー授業でした。M君は、私が担当した8回のうち、後半4回を聴講してくれました。

授業は、毎週金曜日の4時限目に設定されていました。授業が終わると、私はM君を車に乗せて、大阪市住之江区にある相愛大学の南港キャンパスから、阪神高速湾岸線を通って神戸に帰りました。合気道の夜稽古に参加するM君を神戸市東灘区の凱風館道場まで送り、私はその後に灘区内の幼稚園まで長女を迎えに行くというのが、ほぼ毎週のパターンでした。

 授業を終えた後の車内でM君から聞かせてもらう感想を、私は毎週楽しみにしていました。相愛大学の履修者は大半が4年生であり、他学ではありますが同じく大学4年生のM君から感想を聞けるのは、授業の進行を工夫する上で大いに参考になりました。

M君は、最終回を終えた後の車内で「前半の4回には出席できなかったのだけれど、全体としてどのような授業だったのか知りたい」と、言いました。そこで、この場所で私が行った授業全体についてお話ししたいと思います。

私の今回の授業は、「現代社会を生きるための身体の使い方」をテーマにしました。かなり大雑把なテーマですよね。要するに、何でも話せる場所にしようと思い、このようなテーマにしたわけです。私は、内科の医師、そして大学教員という仕事をしています。また、M君も会員となっている武道の道場で、合気道の稽古をするとともに、道場運営(コミュニティづくり)にも、少し関わっています。授業ではこれらの経験をもとに、「(心を含めた)身体をうまく使えている状態」と、「身体をうまく使えない状態」を、対比的に考えてみるということを行いました。単純にいうと、医師としての立場からは、「身体をうまく使えない状態」について考え、武道の側からは、「身体をうまく使えている状態」ということについて考えてみました。

このように、授業の「入り口」については、割と分かりやすい枠組みを設定したのですが、考えを進めていくうちに、人間が「身体をうまく使えている状態」と、「うまく使えていない状態」の特徴は、とても似ているということに気がつきました。学生諸君も、同じように感じたようでした。

ある女子学生は、「人間が、気持ち良く生きている状態と、生きづらさを感じている状態というのは、表裏一体なんだなあ」と、言っていました。私自身、授業を進めていくうちに、「身体をうまく使えている=気持ちが良い」という状態と、「身体をうまく使えない=気持ちが悪い、生きづらい」という状態は、どのように違うのか、その境界がだんだん分からなくなってきました。今ではそのことについてある程度の答えは出ていますが、それは決して完全なものではありません。また、私の考えもどんどん変わっていくもののように思います。

結局のところ、私の授業は、「言いっ放し」になっています。先に謝っておきます。ひょっとすると、M君もこの僕からの一連の手紙を読んだら、同じような混乱の中に入ってしまうかもしれません。

 この授業は、「このように身体を使ったら、あなたの人生はうまく行く」というような、自己啓発本的なものではありません。残念ながら、私にはそのような話をするだけの経験も実績も知識も厚顔もありません。授業は、私が毎回一つのトピックについて語り(問題提起)、その内容に関して受講者が授業の最後の時間に小レポートを作成し、提出する。そして、次週にその内容を私が受講者に対してフィードバックする、という形で進めました。

 トピックは、「最適経験(フロー体験)」「依存症」「アダルトチルドレン」「精神疾患の回復とコミュニティ」「武道」「身体とコミュニケーション(乙武洋匡と「メッセージ」の関係)」「自殺」などを選びました。これらのことを選んだのには、いくつかの理由があります。詳しいことは、それぞれのテーマについてお話するときに言及しますが、大きな前提として二つのことを意識しました。

 一つは、「明確な答えがある話を選ばない」ということです。私はこの授業を通して学生諸君に、身近だけれど、これまであまり考えたことのなかったことを考えてもらいたい、と思っていました。そもそも「現代社会を生きるための身体の使い方」に正解なんてありません。しかし、「これまで考えたことがなかったことについて考える」ということを繰り返していくうちに、自分の思考のクセであったり、意識していなかったけれど自分が大切にしていたことなどに気がつくことができます。このような経験を通して、(脳を含めた)自分の身体についてより詳しく知ってもらいたいと考えました。このことは、学生諸君が現代社会を生きる上で不可欠な情報となるはずです。

 アルコール依存症(AA)の治療では、「底つき」という概念が重要と言われています。アルコール依存症(AA)は、「否認の病気」として説明されることがあります。治療開始前のAA患者は自分がアルコール摂取を自らコントロールできなくなっていること、アルコールが原因で問題行動を起こしていることを決して認めようとしません。そして、様々な問題(幻覚や妄想を含めた身体の問題、人間関係や金銭のトラブルなど)によって完全に追い詰められて、患者さんが自ら「酒をやめるか、死ぬしかない」とリアルに感じること。そのことを「底つき」というのです。

他の誰でもない自分自身が、「酒を断つ」という必要性を実感しなければ、AAの治療は始まらないのです。言うのは簡単ですが、これまで酒に頼って生きてきた人間が酒害を認め、酒を断ち、新たな人生を歩き始めるというのは本当に大変なことです。

また、こちらはすべてのケースを疾患と呼べるわけではないですが、親との関係に起因する生きづらさを抱えている「アダルトチルドレン(AC)」からの回復過程でも、同じことが言えます。ACからの回復には、「これまで自分がもっとも信頼を寄せてきた親との関係にこそ、自分の生きづらさの原因がある」と気がつくことが大切だと言われています。こちらも言うのは簡単ですが、実践するのはかなり難しいことです。

M君がサファリパークの中を車で走っているとします。その車内で火事が起こったら、君はどうするでしょうか?

恐ろしいけれど、車外に逃げ出すしかありませんよね。AAの人が酒を断つことや、ACの人が親との関係を変えるということは、このくらい大変なことだと私は思っています。そしてこのようなことができる人に対して、私は敬意を持ちます。自分が置かれている状況を客観性を持って理解し、必要な行動をとることのできる人間は知性的な存在だと私は思うのです。

 もしかするとM君は、これらを極端な例だと感じるかもしれません。しかし、特定の病気を持っていない人間が社会を生きていくというのも、結局同じことのような気がします。

 人間が生きていると、「サファリパークで発生した車内の火事」に遭遇することが必ずあります(私にも覚えがあります)。その時に、自分が乗っている車(例: 酒や親や友人など)が何なのかに気づくこと、車内の火事(例:酒や人間関係に起因する問題行動)の存在に気づくこと、そして、「自分にはサファリパークの外に出る準備ができているかどうか」を感じること、がとても大切です。

まだ何が起こるか分からない、サファリパークでの出来事に対して自分の準備ができているかどうかを、論理的に判断することはできません。自分が車外にでて生きていけるのかどうかという判断は、感覚的に(あるいは、身体的にと言ってもいいでしょう)予知するしかありません。

「自分が置かれた状況を変えるのは不安だったけれど、車外に出るしか生きる道はないと思った」ということもあるかもしれません。私はそれが大切だと思うんです。その状態こそが、「車外に出る準備かできている」ということではないでしょうか。

 結局のところ、体系的に学べるものでもないし、準備ができたかどうか、外側からはわかるものでもありません。「学習成果」とか「到達目標に対する達成度」なんていうものをはっきりと査定できるようなものではありません。このようなことを言っている私自身もまた、いつまたサファリパーク問題に苛まれるかわかりませんし、すでに何らかの問題の中にいるのかもしれません。

 いつそのような状況が出てくるかは分かりませんが、この「身体論」の授業が学生諸君にとって「車外に出る準備」のささやかな助けになってくれれば良いなと私は思っていました。身近だけれど、これまで考えたことのなかったことを考えるというのは、この準備(=自分を知るということ)につながるものです。

授業で扱うトピックを選ぶ基準のもう一つは、「大学生が単に情報として知っておくだけでもメリットがあるものを選ぶ」、ということでした。一人一人の学生において、授業で扱う問題に対する興味の深さは異なるはずです。これは、この身体論の授業を二年間やってみて、とても強く感じています。

たとえば、フロー体験についての話は、多くの学生が強い関心を持ちます。それに対して、依存症の話は、学生の間で興味の持ち方に大きな開きがでます。ある学生にとって、これは非常に切実なことですが、ある人にとっては、まったくフックされないことのようでした。

 このように、トピックによって学生の反応は随分異なるのですが、いま、そのことについて深く考えることに気が進まなかったとしても、情報として身につけておけば後から役に立つ可能性がある、というものを題材として選びました。

適切な(あるいは、「ランダムな」と言い換えられるかもしれません)情報収集は、時に人を救うものだと私は思っています。ですので、M君も興味の無いことは無理に考えたりしなくていいですので、「こんなこともあるのか」と気軽な気持ちで読んでもらえたらと思います。

 それぞれのトピックについて話をする前に、私がどのような立場の人間として、相愛大学の学生諸君に授業を開始したか、という話からしたいと思います。正直なことを言いますとこの授業では、「どのような立場の人間として私は学生諸君に語りかけるか」ということを考えるのに一番苦心しました。そのあたりのことから始めます。

ここでは、私がこれまでに経験したことを通じて話すということが多く出てくるような予感がしています。実際の授業においても、しばしばそのようなスタイルをとりました。これはいわば、「私小説的な身体論」になるのではないかと思っています。身体について何かを君に語ろうとするとき、私は自分の身体を通して語るという事以上の方法を思いつくことができません。読み苦しいところもあるかもしれませんが、同門のよしみということでどうかお許し下さい。

3月でいよいよ卒業ですね。気に入ってもらえるかどうか甚だ心許ないですが、私からの卒業祝いだと思って、この身体論受け取ってもらえれば幸いです。

2月11日

祝日の朝、久しぶりに凱風館の朝稽古に参加。
午後は、昨年12月に活動を再開した湊川神社神能殿へ行き、神戸観世会の初会を観る。

神戸観世会の「一等星」上田拓司氏の『邯鄲』(「藁屋」の小書き)ほか。盤式楽の舞が素晴らしかった。

帰りに三宮のブラウン・ブラウンへ立ち寄り、修理を依頼していたパンツを受け取る。シャツと薄いセーターを購入し、芦屋へ戻った。

駅地下の大丸で、セロリを購入。
昨日は我慢した赤ワインも、結局購入。

『邯鄲』を観て、世のはかなさを感じたあげくに享楽的になったというわけではないと思う(残念ながら、私はもともと享楽的である)。

昨日我慢した赤ワインを、翌日に結局購入するというのは、ほとんど昨日の我慢が無意味だったと言うことになるのだろうか。それは一面的にはイエスであり、一面的にはノーなのだろう。

「結局、買ったんだから同じじゃん」と責められたら、私はワイングラスをつまみながら首をうなだれ、テーブルを眺めるしかない。

しかし、場合によっては、「昨日ワインを購入し、本日もまたさらに追加購入する」ということもありえたわけだし、私の昨日の我慢は、それなりの意味があったのではないかと思うわけである。

私は、昨日3500円のピノノワールに強く惹かれたのだが、自制した。そして、今日1950円のワインを買った。

たとえば十年のスパンで人生を振り返るとするならば、決して思い出すことのないようなしょうもないことのようだけれど、2月10日と2月11日の私のワイン関連の揺れ動きの中には、日々の生活からは無くすことのできない思考と行動の流れが詰まっている。

『邯鄲』の中で、盧生は「楽」という舞を舞う。皇帝になった夢をみている盧生は、一畳台という非常に限定されたスペースで舞うのだけれど、その場所の狭さが、観る者に対して、世のはかなさ、栄華のはかなさを強く感じさせる演出になっている。

しかし、あくまで盧生の舞は美しい。皇帝の威厳と優雅さが溢れているのである。

「どっちみち一畳台の上だけのことなのだから」と、あきらめてしまう事もあるし、「どっちみち一畳台の上だけのことなのだから」と考え、他に行く場所もないので、できるだけ自分にやれることをしましょうか。ということもある。

赤ワインを買った言い訳が長くなってしまった。

帰宅し、夕食(クラムチャウダー、まぐろのカルパッチョ、かますご、バケット)。

 

*『邯鄲』の舞は楽だけれど、「藁屋」の小書きがつくと盤式楽になる。