日別アーカイブ: 2014年2月13日

2月12日

幼稚園へニレを送った後、帰宅してライブへ向けた練習。

ワンドロップの次回の出演は、フォトグラファー宗石さんのウェディングパーティー。本番が迫っており、さらに追い込みをかけていかねばならない。

昼からは大阪で産業医の仕事。時々カウンセリング的なことや、受診についてのアドバイスをしている社員の方から、バレンタインデーのチョコレートをいただいた。ご主人の急逝をきっかけに心身のバランスを崩してしまった人なのだが、冬になると調子が悪くなりがちである。一緒に春が来るのを待っている。

夜は、毎週水曜日に凱風館で行っている気の錬磨稽古・研究会。

本日は隔週で行っている合気道当事者研究がある日で、発表は小林君がしてくれた。テーマは「腕の取り方、とらせ方」。

「腕を強く握られると、びっくりしてしまう」(カノさん)

「個人名を出すとあれなんですけれど、あの人と稽古するとこういう感覚があっておもしろい」

「私も、個人名を出すのはあれなんですけれど…」

「私も、あれなんですけど…」

「自分よりも身体の小さい人が相手だと、うまく動くことができない気がします」

「道場は実験室で、稽古場の外が本番という話を聞いたことがあるんですけれど…私は稽古場で腕を強く握られると、まだ合気道を始めて日が浅いですのでどうすることもできないんです。なので、「もうちょっと優しくつかんでいただけませんか」と相手の方にお願いすることにしています」(タムラさん)

などというような、様々な肉声が発せられた。

腕を強くつかむ人に対して、「優しく腕をとるようにしてください」とお願いすることによって、自分の腕の掴まれ方が弱くなる、ということは、最終的には自分の目的はある意味達せられているわけで、これは道場外の「本番」においては非常に有効な手段であり、すなわち、タムラさんはとてもいい「稽古」をされていると言うことなのではないか。

というような珍説(なのだろうか)を話してみる。

稽古には、早稲田大学合気道会の方が3名参加してくださった。

終了後帰宅し、夕食。

何も食べるものがなかったので、ハムエッグを焼いてウスターソースをかけて、ご飯にのせて食べた。

インフルエンザからは回復したが、頭痛と咳がまだ続いている。
ビール小瓶一本と、ワイン1.5杯にとどめた。

 

(プロフィールの写真は、宗石さんが撮影してくださったものです)

 

「M君へ語る私的身体論」①

【はじめに】
ここでは、相愛大学で行った授業内容をベースに文章化したものを公開します。大学生のMくんに対してお話する形になっています。

***

相愛大学で2013年度後期に行った「身体論」は、私と、臨済宗の僧侶である佐々木奘堂先生の二人によるリレー授業でした。M君は、私が担当した8回のうち、後半4回を聴講してくれました。

授業は、毎週金曜日の4時限目に設定されていました。授業が終わると、私はM君を車に乗せて、大阪市住之江区にある相愛大学の南港キャンパスから、阪神高速湾岸線を通って神戸に帰りました。合気道の夜稽古に参加するM君を神戸市東灘区の凱風館道場まで送り、私はその後に灘区内の幼稚園まで長女を迎えに行くというのが、ほぼ毎週のパターンでした。

 授業を終えた後の車内でM君から聞かせてもらう感想を、私は毎週楽しみにしていました。相愛大学の履修者は大半が4年生であり、他学ではありますが同じく大学4年生のM君から感想を聞けるのは、授業の進行を工夫する上で大いに参考になりました。

M君は、最終回を終えた後の車内で「前半の4回には出席できなかったのだけれど、全体としてどのような授業だったのか知りたい」と、言いました。そこで、この場所で私が行った授業全体についてお話ししたいと思います。

私の今回の授業は、「現代社会を生きるための身体の使い方」をテーマにしました。かなり大雑把なテーマですよね。要するに、何でも話せる場所にしようと思い、このようなテーマにしたわけです。私は、内科の医師、そして大学教員という仕事をしています。また、M君も会員となっている武道の道場で、合気道の稽古をするとともに、道場運営(コミュニティづくり)にも、少し関わっています。授業ではこれらの経験をもとに、「(心を含めた)身体をうまく使えている状態」と、「身体をうまく使えない状態」を、対比的に考えてみるということを行いました。単純にいうと、医師としての立場からは、「身体をうまく使えない状態」について考え、武道の側からは、「身体をうまく使えている状態」ということについて考えてみました。

このように、授業の「入り口」については、割と分かりやすい枠組みを設定したのですが、考えを進めていくうちに、人間が「身体をうまく使えている状態」と、「うまく使えていない状態」の特徴は、とても似ているということに気がつきました。学生諸君も、同じように感じたようでした。

ある女子学生は、「人間が、気持ち良く生きている状態と、生きづらさを感じている状態というのは、表裏一体なんだなあ」と、言っていました。私自身、授業を進めていくうちに、「身体をうまく使えている=気持ちが良い」という状態と、「身体をうまく使えない=気持ちが悪い、生きづらい」という状態は、どのように違うのか、その境界がだんだん分からなくなってきました。今ではそのことについてある程度の答えは出ていますが、それは決して完全なものではありません。また、私の考えもどんどん変わっていくもののように思います。

結局のところ、私の授業は、「言いっ放し」になっています。先に謝っておきます。ひょっとすると、M君もこの僕からの一連の手紙を読んだら、同じような混乱の中に入ってしまうかもしれません。

 この授業は、「このように身体を使ったら、あなたの人生はうまく行く」というような、自己啓発本的なものではありません。残念ながら、私にはそのような話をするだけの経験も実績も知識も厚顔もありません。授業は、私が毎回一つのトピックについて語り(問題提起)、その内容に関して受講者が授業の最後の時間に小レポートを作成し、提出する。そして、次週にその内容を私が受講者に対してフィードバックする、という形で進めました。

 トピックは、「最適経験(フロー体験)」「依存症」「アダルトチルドレン」「精神疾患の回復とコミュニティ」「武道」「身体とコミュニケーション(乙武洋匡と「メッセージ」の関係)」「自殺」などを選びました。これらのことを選んだのには、いくつかの理由があります。詳しいことは、それぞれのテーマについてお話するときに言及しますが、大きな前提として二つのことを意識しました。

 一つは、「明確な答えがある話を選ばない」ということです。私はこの授業を通して学生諸君に、身近だけれど、これまであまり考えたことのなかったことを考えてもらいたい、と思っていました。そもそも「現代社会を生きるための身体の使い方」に正解なんてありません。しかし、「これまで考えたことがなかったことについて考える」ということを繰り返していくうちに、自分の思考のクセであったり、意識していなかったけれど自分が大切にしていたことなどに気がつくことができます。このような経験を通して、(脳を含めた)自分の身体についてより詳しく知ってもらいたいと考えました。このことは、学生諸君が現代社会を生きる上で不可欠な情報となるはずです。

 アルコール依存症(AA)の治療では、「底つき」という概念が重要と言われています。アルコール依存症(AA)は、「否認の病気」として説明されることがあります。治療開始前のAA患者は自分がアルコール摂取を自らコントロールできなくなっていること、アルコールが原因で問題行動を起こしていることを決して認めようとしません。そして、様々な問題(幻覚や妄想を含めた身体の問題、人間関係や金銭のトラブルなど)によって完全に追い詰められて、患者さんが自ら「酒をやめるか、死ぬしかない」とリアルに感じること。そのことを「底つき」というのです。

他の誰でもない自分自身が、「酒を断つ」という必要性を実感しなければ、AAの治療は始まらないのです。言うのは簡単ですが、これまで酒に頼って生きてきた人間が酒害を認め、酒を断ち、新たな人生を歩き始めるというのは本当に大変なことです。

また、こちらはすべてのケースを疾患と呼べるわけではないですが、親との関係に起因する生きづらさを抱えている「アダルトチルドレン(AC)」からの回復過程でも、同じことが言えます。ACからの回復には、「これまで自分がもっとも信頼を寄せてきた親との関係にこそ、自分の生きづらさの原因がある」と気がつくことが大切だと言われています。こちらも言うのは簡単ですが、実践するのはかなり難しいことです。

M君がサファリパークの中を車で走っているとします。その車内で火事が起こったら、君はどうするでしょうか?

恐ろしいけれど、車外に逃げ出すしかありませんよね。AAの人が酒を断つことや、ACの人が親との関係を変えるということは、このくらい大変なことだと私は思っています。そしてこのようなことができる人に対して、私は敬意を持ちます。自分が置かれている状況を客観性を持って理解し、必要な行動をとることのできる人間は知性的な存在だと私は思うのです。

 もしかするとM君は、これらを極端な例だと感じるかもしれません。しかし、特定の病気を持っていない人間が社会を生きていくというのも、結局同じことのような気がします。

 人間が生きていると、「サファリパークで発生した車内の火事」に遭遇することが必ずあります(私にも覚えがあります)。その時に、自分が乗っている車(例: 酒や親や友人など)が何なのかに気づくこと、車内の火事(例:酒や人間関係に起因する問題行動)の存在に気づくこと、そして、「自分にはサファリパークの外に出る準備ができているかどうか」を感じること、がとても大切です。

まだ何が起こるか分からない、サファリパークでの出来事に対して自分の準備ができているかどうかを、論理的に判断することはできません。自分が車外にでて生きていけるのかどうかという判断は、感覚的に(あるいは、身体的にと言ってもいいでしょう)予知するしかありません。

「自分が置かれた状況を変えるのは不安だったけれど、車外に出るしか生きる道はないと思った」ということもあるかもしれません。私はそれが大切だと思うんです。その状態こそが、「車外に出る準備かできている」ということではないでしょうか。

 結局のところ、体系的に学べるものでもないし、準備ができたかどうか、外側からはわかるものでもありません。「学習成果」とか「到達目標に対する達成度」なんていうものをはっきりと査定できるようなものではありません。このようなことを言っている私自身もまた、いつまたサファリパーク問題に苛まれるかわかりませんし、すでに何らかの問題の中にいるのかもしれません。

 いつそのような状況が出てくるかは分かりませんが、この「身体論」の授業が学生諸君にとって「車外に出る準備」のささやかな助けになってくれれば良いなと私は思っていました。身近だけれど、これまで考えたことのなかったことを考えるというのは、この準備(=自分を知るということ)につながるものです。

授業で扱うトピックを選ぶ基準のもう一つは、「大学生が単に情報として知っておくだけでもメリットがあるものを選ぶ」、ということでした。一人一人の学生において、授業で扱う問題に対する興味の深さは異なるはずです。これは、この身体論の授業を二年間やってみて、とても強く感じています。

たとえば、フロー体験についての話は、多くの学生が強い関心を持ちます。それに対して、依存症の話は、学生の間で興味の持ち方に大きな開きがでます。ある学生にとって、これは非常に切実なことですが、ある人にとっては、まったくフックされないことのようでした。

 このように、トピックによって学生の反応は随分異なるのですが、いま、そのことについて深く考えることに気が進まなかったとしても、情報として身につけておけば後から役に立つ可能性がある、というものを題材として選びました。

適切な(あるいは、「ランダムな」と言い換えられるかもしれません)情報収集は、時に人を救うものだと私は思っています。ですので、M君も興味の無いことは無理に考えたりしなくていいですので、「こんなこともあるのか」と気軽な気持ちで読んでもらえたらと思います。

 それぞれのトピックについて話をする前に、私がどのような立場の人間として、相愛大学の学生諸君に授業を開始したか、という話からしたいと思います。正直なことを言いますとこの授業では、「どのような立場の人間として私は学生諸君に語りかけるか」ということを考えるのに一番苦心しました。そのあたりのことから始めます。

ここでは、私がこれまでに経験したことを通じて話すということが多く出てくるような予感がしています。実際の授業においても、しばしばそのようなスタイルをとりました。これはいわば、「私小説的な身体論」になるのではないかと思っています。身体について何かを君に語ろうとするとき、私は自分の身体を通して語るという事以上の方法を思いつくことができません。読み苦しいところもあるかもしれませんが、同門のよしみということでどうかお許し下さい。

3月でいよいよ卒業ですね。気に入ってもらえるかどうか甚だ心許ないですが、私からの卒業祝いだと思って、この身体論受け取ってもらえれば幸いです。