祝日の朝、久しぶりに凱風館の朝稽古に参加。
午後は、昨年12月に活動を再開した湊川神社神能殿へ行き、神戸観世会の初会を観る。
神戸観世会の「一等星」上田拓司氏の『邯鄲』(「藁屋」の小書き)ほか。盤式楽の舞が素晴らしかった。
帰りに三宮のブラウン・ブラウンへ立ち寄り、修理を依頼していたパンツを受け取る。シャツと薄いセーターを購入し、芦屋へ戻った。
駅地下の大丸で、セロリを購入。
昨日は我慢した赤ワインも、結局購入。
『邯鄲』を観て、世のはかなさを感じたあげくに享楽的になったというわけではないと思う(残念ながら、私はもともと享楽的である)。
昨日我慢した赤ワインを、翌日に結局購入するというのは、ほとんど昨日の我慢が無意味だったと言うことになるのだろうか。それは一面的にはイエスであり、一面的にはノーなのだろう。
「結局、買ったんだから同じじゃん」と責められたら、私はワイングラスをつまみながら首をうなだれ、テーブルを眺めるしかない。
しかし、場合によっては、「昨日ワインを購入し、本日もまたさらに追加購入する」ということもありえたわけだし、私の昨日の我慢は、それなりの意味があったのではないかと思うわけである。
私は、昨日3500円のピノノワールに強く惹かれたのだが、自制した。そして、今日1950円のワインを買った。
たとえば十年のスパンで人生を振り返るとするならば、決して思い出すことのないようなしょうもないことのようだけれど、2月10日と2月11日の私のワイン関連の揺れ動きの中には、日々の生活からは無くすことのできない思考と行動の流れが詰まっている。
『邯鄲』の中で、盧生は「楽」という舞を舞う。皇帝になった夢をみている盧生は、一畳台という非常に限定されたスペースで舞うのだけれど、その場所の狭さが、観る者に対して、世のはかなさ、栄華のはかなさを強く感じさせる演出になっている。
しかし、あくまで盧生の舞は美しい。皇帝の威厳と優雅さが溢れているのである。
「どっちみち一畳台の上だけのことなのだから」と、あきらめてしまう事もあるし、「どっちみち一畳台の上だけのことなのだから」と考え、他に行く場所もないので、できるだけ自分にやれることをしましょうか。ということもある。
赤ワインを買った言い訳が長くなってしまった。
帰宅し、夕食(クラムチャウダー、まぐろのカルパッチョ、かますご、バケット)。
*『邯鄲』の舞は楽だけれど、「藁屋」の小書きがつくと盤式楽になる。