下川正謡会歌仙会(夏期練習会)の日。
10時開始だったのだが、翌日から仕事で使用する書類(新城先生と行っている共同研究の論文作成資料)をとりに、大学へ行く。
御影の下川舞台から大学までは車で10分ほどの距離なのでありがたい。
台風のせいで昨日につづいて雨風が強く、9日10日と連続して開催予定のオープンキャンパスに大きな影響が出ている。天候には逆らえないが、1年かけて準備を進めてきた担当部署の方々の気持ちを考えると胸が痛む。
10時過ぎからは、歌仙会。『百萬』のシテと、『野守』の独吟をさせていただいた。
地謡は、ご高齢と体調不良でこられなくなったHさんの穴の大きさを感じる。社中での先輩男性は、お二人だけになってしまった。
終了後、慰労会でビールを飲みながら、下川先生や先輩のお話を伺う。プロとアマチュアの違いは多々あるが、「舞台に上がることができなくなったらそれで終わり」、というしごく当たり前の事だけは全く同じだなと感じる。
準備を重ねる日々、舞台に上がっているそのとき、その両方だけが、人間が生きている時間そのものだ。そのうえで、舞台に上がっているときに何を表現するのか。その前にどのような準備を重ねるのか。
それを自分の立場できちんと考えることは、プロであろうがアマチュアであろうが大切なことに変わりはない。だって、それはそれぞれの人間が生きている有限な時間の一部であることにかわりはないのだから。
ポエム的な表現になってしまったが、大まじめにそう思っている。だって本当に「死んだら終わり」だし、「舞台に立てなくなったら終わり」なんだから。極端な話、終わった舞台、終わったパフォーマンスをそのまま生き生きと残し続けられるのは「神様」だけだろう。
私は、芸事として仕舞や謡が上手くなりたいと思っている。なので、自分なりにがんばって稽古をするわけなのだが、それは単に、「技能スケール」でメモリが上に上がったものを表現したいと思っているからでは無い。
私は自分の身体を通して、その瞬間にしか作り出せない時間だったり、自分が好きなセンスだったり、清らかさだったり、優雅さだったり、強さだったりを表現したいと思っていて、それは、がんばって稽古しないと、身体も心もそれを表現するような体制にならないので、がんばって稽古するのである。
そして、その表現の送り先は主に自分自身だったりする。これが、アマチュアということなのだろう。
そういうことを大切にしながら能楽と関わっているので、私はプロであってもアマチュアであっても、「その人自身」が現れている舞台が好きだし、そういうものに接すると、能楽の稽古をしていることの喜びを感じる。
たとえばそれは、病気で長く休まれた後で稽古に出てこられた高齢の女性が、やせ細った身体で仕舞を舞う姿、扇の先端にまであふれる緊張感と命の儚さとか、そういうものだ。それは、舞手の意思とか自我とかそいうものを超えて、周りが勝手に受け取っているもののような気もする。
このように能楽は、上手かろうが下手だろうが、稽古をしている間だけが、新しい「時間」を持つ可能性を有している。
舞台に立てなくなったら、その人は、また別の形で、私や私以外の人に影響を与えるようになる。それはまさに、稽古に来られなくなったH先輩が私に影響を与えているように。