3月22日 平野啓一郎『空白を満たしなさい』を読む。

多田塾甲南合気会の春合宿に二日目から参加。

行きの電車で、『空白を満たしなさい』(平野啓一郎)を読む。

分人という概念•方便を採用することで、行きづらさが解消される人がいるのならば、それはそれで良いことなのだろう。

ただ、あらゆる「薬」には、使用することによる副作用(目的以外の効果)がある。

「お肉が食べたいときの私」と、「刺身が食べたいときの私」を別な人間として考えるということは、それほど難しくないことだ。

しかし、問題とは往々にして、「肉も魚も両方食べたい」というときに起こるものである。

こう言うときに、「とんかつ的な自分」と「何が何でも平目の刺身派の自分」に分割し、それを戦わせるというのはあまりにも寂しい。

無益な争いである。

というか、「戦い」とはこのような形で常に無益だ。

「とんかつも平目の刺身も両方食べたい私」を、「あら、こまったちゃんね」とやさしく包み込み、ときにはその希望を叶え、ときにははぐらかすテクニックこそが私には大切なように思われる。

べてるの家では、この「こまったちゃんとの対話」のことを「「幻聴」から「幻聴さんへ」」という一言で表現している。

分人と言う概念は、個人の中の様々な側面を空間的に配置、並列することに近い。おそらくそれだけではないのだが、そのような考えに結びつきやすくて、それがある種の「戦い」を引き起こしがちではないか。

個人のなかでの様々な側面というのは、すべてを空間的に分けることができない。それは、無いときはないし、出てくるときは出てくる。幻聴と一緒である。

「分人」的な考え方は、物事を整理して考える上で非常に有用だ。しかし、いらない争いを起こしがちでもある。

そのことを20年も前に安達祐実は「分人するなら金をくれ」という捨て台詞で表現した。(嘘)

「分人」から「分人さんへ」

という発想を、ぜひ分人派の方々には、頭の片隅においていただきたいものである。

あなたと私の「困ったちゃんとの対話」が、今日も健やかであることを祈っています。