「M君へ語る私的身体論」⑧ あの時、ごく短い時間で考えたこと(フロー体験1)

相愛大学の授業は「身体をうまく使えている状態」について考えることから始めました。それが学生諸君の希望だったので、内容的にも期待に沿うもの、初回から興味を持ちやすいものにしようと思い、「フロー体験」を取り上げることにしました。

フロー体験とは、日本語で最適経験と呼ばれたりもしています。「一つの活動に深く没入しているので、他の何ものも問題とならなくなる状態」のことを指します。*1

私がフロー体験について考えるようになったのには一つのきっかけがありました。2012年の7月に神戸女学院大学で集中講義「対人コミュニケーション」の一部を担当することになり、私はそのお話をいただいた2011年の秋に少しずつ授業の準備をすることにしました。

実際の授業を行うまではまだ時間がありましたが、当時の本業の医学研究の方はいつ何時忙しくなるのか予想がつきませんでしたので、神戸女学院での授業については、できるときにできるだけの準備を進めておく必要がありました。

その授業は、「キャリアデザインプログラム」という副専攻の枠に入っていて、将来ホテルや、エアライン、銀行などで働くことを目指している学生が、仕事で必要になるコミュニケーションについて考えることを目的としたものです。

ホテル業界の方、インターナショナルスクールの元校長先生などが授業を担当されていて、その中で私は、「医療上のコミュニケーション」についての講義を行うことになりました。

病院におけるコミュニケーションの特徴や、起こりやすい問題、エピソードなどはいくらでも話すことはできますが、ある程度学術的な裏付けの基に授業を進めたいという気持ちがありました。

医療コミュニケーションについて土曜日一日で90分×4コマの授業をするので、多面的な切り口(はっきり言うと、学生のみなさんが飽きない工夫)を考える必要がありました。

いくつか「コミュニケーション学」についての本を読んだのですが、残念ながら私が持っている医師としての経験とうまく融合させられそうな学問体系に出会うことはできませんでした。

そこで、当時私はまだ阪大にいたので、キャンパス内で、コミュニケーション学の専門家を探すことにしました。

コミュニケーション研究は、心理学の領域で主に行われているようでした。

阪大で心理学者が多く在籍しているのは人間科学部です。阪大吹田キャンパスにある人間科学部の研究棟は医学部の隣なので、非常に好都合でした。調べてみると、阪大には、コミュニケーション学について研究されている社会心理学研究室のD教授がおられました。D先生は、「対人コミュニケーションのプロセス解析」や「顔コミュニケーション」を専門にされている心理学者でした。

今思うと大変不躾なことでしたが、私は、「医療におけるコミュニケーションの授業を行うことになったので、コミュニケーション学についての基本的なことを教えてください」というメールをD先生に送りました。

数日後、D先生は丁寧なご返事をくださり、お会いいただけることになりました。

メールの記録を調べてみると、私は2011年の11月28日に研究室に伺っています。一つだけ計算違いだったのは、当時の人間科学部は改装工事中で、D先生の研究室は、一時的に阪大箕面キャンパス(旧大阪外語大)に移っていたことでした。

11月の箕面キャンパスはどういうわけか分かりませんが、ほとんど人がいなくて、とても静かでした。守衛さんに会った後はキャンパス内で誰にも合わなかったので、「本当にこの場所にD先生の研究室があるのか?」と不安になりましたが、守衛さんに教えてもらった通りの道を、菓子折りの袋を下げながら歩いて行きました。

箕面キャンパスは道路が広く、大きなグランドとテニスコートがありました。結局、守衛さんに会った後、D先生にお会いするまでは誰とも会いませんでした。医局や大学病院では、いつも人に囲まれて仕事をしていたので、このような静かなところで働ける大学教員という職種を、少し羨ましく思いました。

D先生の研究室は、建物の2階にありました。ノックしてドアを開けると、そこは驚くほど広い部屋でした。20人位だったら十分に授業ができそうな広さでした。赤茶色のリノリウムの床で、部屋の中央に一段段差があったので、そこは本当に教室だったのかもしれません。

D先生はその部屋の窓際にご自分の仕事机を置き、部屋の真ん中にミーティング用のテーブルを置いていました。

予想外の部屋の大きさに戸惑っている私を見てD先生は、

「間借り中で、こんなところに居るんです」

とおっしゃり、私を室内へ招き入れてくださいました。

D先生は、優しく丁寧な口調でお話をされる、大変紳士的な方でした。髪が黒々とされていて、エネルギッシュな印象を受けました。

早速本題に入りました。

 

・「コミュニケーション学」の学問体系というものが、どのように構築されているのかよく分からない。

・正直なところ、私には「コミュニケーション」というものを学問あるいは科学として考えるというのはどういうことなのか、分からない。

 

ということを率直に伝えました。

簡単に言うと、特定の学術領域としての主立った「知見」とか「軸」というものが私はコミュニケーション学の中に見いだすことができませんでしたし、「コミュニケーションを科学する」ということの方法(分析法、検証法)の精度をどのように担保するのかが分かりませんでした。

すると、D先生は、私の話が終わるか終わらないかというタイミングで、「コミュニケーションというのは空気みたいなものですので、それを考えるアプローチは無数にあるんです」

とおっしゃいました。

失礼な言い方になってしまいますが、私はそのD先生の反応スピードから、この先生のことが理屈を超えて好きになってしまいました。しかし、それと同時に大きな溝をはっきりと感じました。

コミュニケーション学については学会も存在しますが、そこはコミュニケーションを専門的に研究している研究者の「主戦場」というよりも、多様な専門分野を持っている研究者が、「コミュニケーション」という切り口の上で寄り集まってくる、学際的な場所の様でした。

私が神戸女学院大学に求められているのは、将来の仕事に活かすことのできるコミュニケーション関連の話であり、「コミュニケーション学」に何らかの学術的な背景を求めて余計な話をするよりも、現場の話に特化して、学生の役に立つ話を進めるべきだということが、その瞬間にわかりました。

それまでにコミュニケーション学に関するいくつかの本を読んでいたという前提があってのことなのですけれど、D先生とお話することで、「心理学的アプローチ」というものは医学・バイオ研究を含めた自然科学研究とも、人文科学とも異なっていて、どうも私にはなじめそうもない(=主戦場とすることはできない)ということがはっきりしました。

「神戸女学院の授業では、心理学とは別のアプローチを取り入れなくてはならない」ということが分かりましたので、D先生にお会いした私の目的は、面会後1分で果たされてしまいました(それはとても貴重な1分だったのですが)。

しかし、面会後1分で帰る訳にもいかず、私は困惑してしまいました。

非常に短い時間に、もやもやと多くのことを考えました。

 

私は、心理学における研究では、研究の出発点(あるいは動機づけ)と、到達点の設定の仕方が自分が考えている「科学研究」とは完全に異なっているので、その違いを前提として謙虚に教えを請わなければならないと思いました。

自分が非常に幸運な出会いの只中にあり、この貴重な機会を生かさなければならないという気持ちはありましたが、どのように言葉をつなげれば良いか分かりませんでした。そこで、苦し紛れではありましたが、

「私は、医学研究者としてバイオ研究を行っているのですけれど、同時に合気道の稽古をしています。合気道は「現代に生きる武道」と言われており、将来、医学と武道を横断的に結ぶ研究をしてみたいと思っているんです」

と言いました。

D先生にはこのようにお話しましたが、私にとっては、この「横断的研究」のアプローチ、あるいは方法自体が大問題でした。このような研究を行いたいという気持ちはありましたが、実際にはどのように進めたらよいのか分からなかったのです。

そしてこの日私は、D先生とお会いすることで、「心理学的アプローチ」が自分には馴染まないということだけがわかりました。

それまでの私は、心理学という未知の分野にある種の希望を抱いており、その学問的体系が、自分が行いたいと思っている研究を助けてくれるのではないかという浅はかな気持ちを持っていました。

それは先ほど述べた「横断的研究」のことに限らず、神戸女学院でのコミュニケーションの授業においても同じことでした。しかし、そのような私の考えは「甘え」であるということが、D先生とお話して分かったわけです。

 

社会心理学というのは、社会における人間の行動(たとえば「意思疎通」とか、拒絶を含めた「自己表現」など)を心理学的に分析し、説明する学問のようでした。正直言って、わたしにはそのやり方が、「形の無いものに対して、既存の枠組みを当てはめていく振る舞い」に思えてしまいました。失礼を顧みずにわかりやすい例えを用いるなら、それは「過剰な単純化」であると感じたわけです。

そして、その「単純化」「枠組みの当てはめ」を繰り返しているうちに、複数の枠組みに収まらない暗闇の数が、どんどん増えているような気がしました。

 

「研究を進めていくうちに新しい疑問が生まれる」というのは様々な研究において認められる、ごく普通のことです。ある意味これは、研究が着実に進んでいる証ということができるかもしれません。しかし、私にとってこのタイプの疑問(暗闇)は、「生まれるもの」というよりも、説明や解釈の脇から「こぼれ落ちていくもの」のように思えました。

私は、医療コミュニケーションの特徴や難しさを神戸女学院大学の学生に対して語りたいと思っていましたし、「医学と武道を結ぶものが何か」という研究をしたいと思っていました。しかしそれは、ある種の枠組みにそれを落とし込みたいということではなくて、もっと、生成的な言葉、あるいは、語られることでメッセージがさらに進化していくようなものを作っていきたいと思っていました。

私はそのような「無理難題」の答えを、私がまだ知らない心理学というものに、勝手に求めてしまっていました。

 

非常に短い時間でしたが、私はそのような自分の甘えた気持ちに対して強い自責の念を持ちました(少ない言葉を交わしただけで、私が「いやー、そうですか。うーん」などと言いながら、天井を見つめたり、急に床をじっと見たりしていたので、D先生は、私のことを変な男だと思われたと思います)。

私が心理学との間に感じてしまった「溝」は、私自身の思考のゆがみと勉強不足に一部由来するものであるということもまた分かっていました。

ですので、あらためてまっさらな、開き直るような気持ちで、「別世界」の研究の大家であるD先生から、吸収させてもらえるものは何でも吸収させてもらおう、と思いました。

わたしは、そのような気持ちで、D先生に

「将来、医学と武道を横断的に結ぶ研究をしてみたいと思っているんです」

と言いました。

私が話すとD先生は、「私の現在の研究のメインテーマは”Well-being”(心身ともに健康であること)の分析なんです」

というお話をされました。
D先生は多彩なテーマで社会心理学の研究を進めてこられたので、それを社会に役立つ形にまとめたいというお気持ちを持たれているようでした。遠い射程を持って長年研究を続けてこられたのだということが、分かったような気がしました。

「歳を取ってくると、自分がこれまでしてきたことを肯定的な方向にまとめていきたいと思うものなのでしょうかね」

とおっしゃっていました。

その後、いくつかの話をお聞きするなかで、D先生は「ポジティブ心理学」(ナカニシヤ出版)という本をくださいました。

私は後に、この本の第4章「フロー経験の諸側面」を読むことで、「フロー体験」について考えるきっかけを与えられました。
(続く)

 

*1「フロー体験 喜びの現象学」(世界思想社)M.チクセントミハイ p5