「M君へ語る私的身体論」③ 合気道家と愛猫家

合気道は試合形式を取らないので、通常のスポーツや競技武道では勝負関連のことに使用する脳の情報処理能力を、勝負以外のことに回すことができます。人間が意識の上で情報を処理できる能力には限界があるということは科学的に説明がなされていて、中枢神経系が情報を処理できる能力は、最大1秒間に126ビットだそうです。

 そして、他者が何を話しているか理解するには、毎秒40ビットの情報を処理しなければならない。このことは、「意識上の情報処理には明らかな限界がある」ということを示しています。

勝負の結果や、勝負にまつわる駆け引きについて考える必要が無い合気道は、その分、身体運用と身体を介したコミュニケーションに集中できるという特長をもっているわけです。

まあ、対立的な構図というのは必ずしもはっきりとした「勝負」「ゲーム」という形をとらないこともままあるわけですが。
何を言いたいかというと、合気道が試合という形式をとらないとしても、それを対立的な構図で行うということは、ありがちだということです。

しかし、ここではそのような話をしたいわけではありません。やはり合気道の大きな特徴は試合形式をとらないことであり、ここでは、そこから得られるものという話を進めたいと思います。

 合気道の稽古中、稽古相手から受け取る情報入力のほとんどは非言語的なものです。そして、それが個人の中で部分的に言語に変換されます。例えば、合気道の身体接触を通じて、「この人、真面目な人だなあ」とか、「いま、疲れてるんだな」とか「見栄っりだな」とか、「お母さんみたいな人だなあ(男なのに)」とか、このような形で非言語的な情報が言葉に変わっていく。

一方、それがあまり上手くいかない時には、言葉になりきらない体感が「宿題」あるいは、「無形文化財」みたいな感じで体に残る。

 私は、合気道の稽古は、決まった体感や状態を得るためにするものではないと思っています。特定の体感を求めて動くというのは執着的な稽古になりやすく、武道ではそのような状態をあまり良しとしないようです。

 それでは、「何か」を求めるわけではない形で合気道の稽古をすると、結果として何が起こるかというと、身の回りの状態の「認識システム」が活性化する、敏感になる、冴える、ということが起こる。

保阪和志が猫と関わることでしか得ることのできない経験や、認識を持つのと同じように、私は合気道の稽古をすることで、自分の周りの世界の認識システムが変化するのを感じているのです。

 そして、そのような特有の感覚を持つ状況は、少しずつですが稽古中だけでは留まらなくなってきていて、稽古以外の時間でも、同門の仲間との人間関係がそのような認識システムのもとで築かれるようになってくる。

そしてそのうちに、その固有の認識システムは、合気道以外の場所でも使われるようになってくる。きっと、愛猫家もそうなんでしょう。最初は「猫を愛する」という振る舞いは、その人と猫の間でだけの関係に限定されていたのが、次第に愛猫家として社会全体を認識するようになってくる。このようなタイプの人間はもしかすると珍しいのかもしれませんが、少なくともそのような形で世の中を見ることは、その人の中に固有の時間と空間が立ち上がっていて、それは小説的なものにつながっている。

 そして、保阪和志はそのような場所を生きている。同じように私は、最初は合気道をしているときだけに限定されていた自分の認識システムの変化が、次第に合気道以外の状況にも広がってきているのを感じている。

話が戻りますが、合気道の道場の人間関係では、身体接触を介した他者理解というのが、社会一般での人間関係の場合よりも明らかに重視されていると思います。

武道をするためにみんな集まっているわけなので当たり前といえば当たり前なのですが、前述のとおり、合気道は、勝負という形式をとらない分だけ身体感覚に敏感になりますから、身体接触を重視する傾向が強くなります。

大学生であるとか、会社員であるとか、主婦であるというような社会的肩書きも、もちろん人間関係を構築するうえでの情報としてインプットしているんですけれど、それと同じかそれ以上に、「この人は、とても受容的な合気道をする人だ」とか「この人は、わりとマッチョな技を好む人だ」とか「あわてんぼうだ」とか「なんとなくエロい」とか、「自分にしか興味が無い人だ」とか、そのようなことを身体情報としてインプットしていて、それをもとにその人と付き合ったりする。

たとえば、同じ道場に通っているハラダさんは新幹線を作る会社に勤めている女性で、現在合気道参段。物腰の柔らかい、とても礼儀正しい人ですが、いざ合気道の時に手を取り合ってみると、自分の持つ「間」(タイミングに近いものです)や流儀というものを非常に大事にしているということを強く感じる。

ハラダさんは、自分の持つ筋目を決して曲げたくないというような意志の強さがあり、「もたいまさこ的存在感」をこちらに抱かせる。こちらがタイミング悪くふざけると、いざと言うときには眉をひそめて怒られるような気がする。

 一方、イノウエさんは私と一緒に道場の運営に携わってくださっていますが、こちらも合気道参段。入門されたのは不惑を超えてからですが、とても情熱的な合気道をされる。身体は大きくないのですが、自分の身体からエネルギーを発散させることをとても大切にされている。

これまでは、エネルギーの発散の仕方を上手く見つけることができずに苦心されることも多かったのではないかと想像するのですが、ここ最近、あらたな境地を得られているように思う。

イノウエさんに対して私は、「遅れてやってきた本物」というような印象を抱いており、彼女のことを「凱風館道場のシンディー・ローパー」と密かに名付けている。

イノウエさんはいよいよ、『ハイスクールはダンステリア』から、『トゥルーカラーズ』状態に移行している(1983年に発売された『ハイスクールはダンステリア』は、現在『ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン, ”Girls Just Want to Have Fun”』という、原題のカタカナ表記に変わっている)。

 道場の書生をしているユアサくんは、20代後半の男性で、もともとダンスをしていたこともあり、同場内で最も運動神経が良い人の一人である。彼は「猫ダンサー」と自称していて、自らのメールアドレスなどにその名前を使っている。合気道の技の受けをするときの受容性がとても高くて、まさに猫のように身をこなす。

彼が私の腕を取り、彼に技をかけている時には、コラット種のような短毛の猫の背中を撫でているような恍惚感を感じることがある。ユアサくんの受けには、「光」と「温かみ」をはっきりと感じる。もともと、口数が少なく、けっして社交性が高い人間では無かったが、合気道の道場で書生の仕事を続けるうちに、道場での自分なりの棲み方を見つけたように見える。ユアサくんは、こちらから近づかなくとも窓さえ開けていれば、彼にとって必要な時に、こちらに近づいてきてくれる。猫である。

私はこのように、自分が身体接触から得た情報を自分の中で言語に置き換えるようなことをしています。そしておそらく、合気道をしている人は、それぞれ少しずつやり方が異なるとしても、同じようなことをしているのではないでしょうか。M君はどうでしょうか。

 興味深いのは、合気道をする人は身体接触という非言語的コミュニケーションに基づく情報のみを重視して、会話などの言語的なコミュニケーションを軽視するかというと、そんなこともないというところです。

 合気道をする人は、自分が稽古相手と重ねた「非言語的コミュニケーションにおける感覚」と、「言語的コミュニケーションで得た感覚」が同じものなのか、つい確認したくなってしまう。

だから稽古の後も、当たり障りの無い会話をすることで、言葉によって「非言語的コミュニケーションで得た体感」の確認作業を行うことになる。私は、合気道の道場での人間関係はこのような形でつくられているように思います。