「M君へ語る私的身体論」② 合気道・保阪和志・猫

M君と私は、大体週に一度くらい道場で会っているでしょうか。よく話もしますが、あらためて考えてみると、そのほとんどは、「JR神戸線、今日も遅れてるなあ」とか、「和歌山で海水浴するんだって」とか、そのような時候の挨拶的な事ばかりです。

私はあまり、通常の稽古の後で居残り稽古をしたり、合気道の技について意見交換をしたりという習慣を持っていないので、M君以外の合気道の知り合いとも、技の話をあまりしません。ときどき稽古の後にビールを飲みに行って、「自分の中では、合気道をすることと、仕舞を舞うことの間に境界をつくっていない」とか、そういう話をすることはあるんですけれど、道場の中でも外でも、合気道の一つの技についてじっくり意見を交わすというような習慣がないんです。

「稽古で得た技の体感」というのは言葉にできないものが非常に多いですよね。そして、その感覚には、心の持ちようから全身の使い方まで、実に様々な要素が絡み合っています。それらの感覚の中から一部のものだけを抽出して、たとえば、「ある技での手の取り方」みたいなものを、会話が成立するレベルまで単純化するという作業に戸惑いを感じてしまうんです。そういう話の仕方は、身体を使う「状況」が限定されすぎているような気がするんです。

もちろん、普段の合気道の稽古でも、ある種の状況(太刀で相手を打つとか、こぶしを突きつけるとか)は設定するわけですけれど、それはもっと大きな文脈というか、流れの中にあるものとして私はとらえています。

一緒に合気道をする人間との間に、固有の時間を立ち上げることが大切だと思っているので、無時間的に、一つの「点」において技が上手くいくか行かないかと言うような話をするのは、あまり気が進まないんです。

これはあくまで私の考えであって、このような考えを持つことは、もしかしたらあまり良くないことなのかもしれません。ただ、私はどうしてもそのような形で合気道の技のことを直接的に話すことが好きじゃないんです。なので、それを無理に行うと他人に迷惑をかけてしまうかもしれないので、あまりしないようにしています。*

そして、私がここでM君に対して語りかけていることは、まさに自分がM君と合気道をするのと同じこと、私と君の間にここ以外では立ち上がらない「時間」を作りだすことだと思っています。私が、合気道をしているときにのみできること(ある種のコミュニケーションといっていいでしょう)を、ここでもできるのじゃないかと考えています。

そういう意味では、ここでM君に対して語ることは、その内容も勿論大切だと思っているのですけれど、M君に対して語りかけるというその「回路のあり方」に対して、私は大きな関心を抱いています。

 繰り返しになりますが、私が道場の仲間と稽古後に話すことは、「最近忙しいですか」とか「中間テストもう終わったの」とか、「出産予定日はいつだっけ?」とか、そのようなことばかりで、それ以上踏み込んだ話をほとんどしません。

道場における私の同門のみなさんとのお付き合いは、社交辞令的な会話をちょっとして、稽古をして、そのあと縁が合った人とは一緒にビールを飲みにいって、さらに、たわい無い会話を少し続けて。そんな感じです。

 しかし、だからと言って、みなさんと仲が良くないとか、意識的に距離をとっているとかそのようなつもりもありません。もちろん、自分よりも合気道の経験が少ない人から技についての質問をされたら、丁寧にお話しするようにしています。そのときは、基本技の手順みたいなことを言います。

もう少し合気道の話をさせてください。「私が合気道とどのように関わっているか。合気道のことをどのように感じているか」ということです。拙いものですが、これは私がどんな人間であるかということを、普段は社交辞令的な会話しか交わしていないM君に対して伝えることにもなると思います。

 保阪和志という小説家がいます。小説と同時に、小説論もいくつか書いています。保阪和志は、とても猫が好きなようでして、猫がいる場所で数人の仲間が緩やかな関係をつくって生活する小説を書いています。また、保阪さんは、猫の死に対して非常に心を痛めたことがあり、「猫の死は、関係の近い人間の欠落よりも辛い」というようなことを言ったりしています。

保阪さんは、猫と共に過ごしている人間の「認識のあり方」を描いています。あるいは、猫というものが存在したり、消えたりすることによって固有の時間が立ち上がること(小説的時間が立ち上がること)を伝えているように私には思えます。ただこれは、「猫とはなにか」を書くことではないんです。

「猫」なるものがあると、自分の認識が変化する。猫によって結びつけられる人間同士の関わりが変化する。猫とかかわることで、それ以外の状況では出てこない、固有のものがそこに生まれる。そこがとても大切だと私は思っています。

 それと同じように、私は、「合気道とはこういうものである」ということを言うつもりはなくて、合気道というものに関わる人間や、人間同士の関係が変化する。ということを言いたいのです。

残念ながら私は、「保阪和志が猫を愛するように、私は合気道を愛している」と言うことができません。しかし、それでも合気道を続けていることで、自分の生き方がかなり合気道に寄り添ってきたような気がしています。

 自分でそうしようと思ってそうなったと言うよりも、いつの間にかそのような生き方になっていたというのが正直なところです。「保阪和志が猫を愛するように私は合気道を愛している」と言えないことは少し寂しい気持ちもありますが、「私は他人に対して胸を張って、「合気道を愛している」と言えるような気持ちを持てていない」と素直に感じ、言葉にできるようになったこともまた、合気道のおかげだと思っています。

私は、2012年の秋に職を変えました。それまでは大学の医学部で医者および医学研究者をしていたのですが、今は神戸の女子大(神戸松蔭女子学院大学)で働いています。これを書いている時点で、職場が変わってから1年と3ヶ月が経ちました。管理栄養士を目指す学生に医学を教えるのが主な仕事ですが、大学に合気道部を作って、新しい職場でも合気道の稽古を始めました。

職場が変わると、自分のことを人に説明する機会が増えます。私の場合は、「佐藤先生は、合気道をしているんですよね」と聞かれることがよくあります。そして、そんな時にはだいたい決まって、「合気道って、どのようなものですか?」と引き続き尋ねられます。

 そのような状況は、大抵の場合エレベーターの中とか、講義のプリントを印刷している間とか、あまり説明する時間がないことが多いです。そのような時に私は、「合気道は試合をしない武道なんです」とか、「身体の感覚を研ぎ澄ませることを目的にしていて、芸術に近いものだと思っています」などと言っています。

 しかし、このような説明で納得する人はほとんどいなくて、私がそのように言うと、ほとんどの人は不思議そうな顔で、「はあ」とか「なるほど」などと呟いて、その場所から去っていきます。

 その場所に取り残された私は毎回、「また、合気道のことを上手く説明出来なかった」と小さく落ち込むのですが、話し相手がその場を立ち去らずに、私の次の言葉を待ち続けていることも時々あって、それはそれで非常に困ります。

 そういう時は仕方がないので、「合気道は、女子学生が行う課外活動として、非常に良いものだと思ってるんです」などと言葉をつないで、今度は私の方からその場を離れたりします(そして、また落ち込みます)。

 もしかしたら、M君も同じような経験を持っているかもしれませんが、合気道をしない人に対して合気道のことを簡潔に説明するのは非常に難しいです。そして、転職をきっかけにそのような苦い経験を繰り返した私が感じているのは、合気道をしたことのない人に対して合気道のことを簡潔に説明する場合はやはり、「合気道は試合をしない武道である」ということを入口にするのがいいのではないかということです。

*元々このような人間だった私が、後から「合気道当事者研究」という、合気道について語る試みをすることになる訳なんですが。このことについてはいずれお話します。